城郭探訪

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探訪【金堂陣屋 近江国】2013.7.18

2013年07月18日 | 館跡

陣屋跡に建つ稲荷神社

金堂陣屋は近江商人発祥の屋敷跡が残る五個荘町金堂の一画にある。通りの名前も陣屋通りといい、陣屋の跡地には稲荷神社が祀られている。

 陣屋跡地の大半は外村繁邸屋敷になってしまっている。

徳勝寺の表門陣屋の表門が近くの勝徳寺の表門として改修されて残っている

 

陣屋の表門が近く 貞享2年(1683)に本多忠平が大和郡山藩主として入封した時、近江国内で4万石が所領が与えられた。

このうち、蒲生,神崎,坂田三郡の所領を管理するため、陣屋がおかれた。

 陣屋には代官1名、手台2名、書役1~2名が常駐し郡山藩士が交代で在番し、司法、行政を司っていた。「神崎郡史稿」に収録されている古図から、陣屋は長屋門と堀に囲まれ、役所,役宅と土蔵,牢屋、稲荷社があったことがわかっている。

 明治5年に廃止され、敷地は民家に払い下げられたが、長屋門は西側の徳勝寺に移築されている。(現地案内板の内容を一部編集)
の勝徳寺の表門として改修されて残っている。

所在地:東近江市五個荘町金堂(陣屋通り)


探訪【根来陣屋 近江】2013.7.18

2013年07月18日 | 館跡

奥石神社の駐車場の一角に建っている

現地説明板                 

来陣屋跡は奥石神社周辺(碑文) 根来氏は鉄砲で有名な根来衆の一末裔、根来盛重が大和・近江・関東に知行所を拝領し、3450石となる。内、寛永10年(1633)の近江の知行所は699石であった。元禄11年(1698)の領地替えで知行所が近江に統合された。この時期に陣屋が設置され代官所を置いた。根来陣屋の代官は代々、坪田恒右衛門家が郷代官を勤めた。  福生寺本堂に陣屋書院を移したといわれている。

道路古図(根来陣屋が記載)

 移築の根来陣屋書院(改築)の福生寺金堂

<沿革>

旗本根来家の在地代官所跡である。現地の説明板にしたがえば、根来氏は和泉国熊取谷の出で、初代盛重は元根来寺の僧であった。秀吉と根来衆との戦いの後、家康に仕え戦功をあげた。

根来家は、幕府成立後3450石の大身旗本に出世した。元禄十一年(1698)に、領地替えで近江に所領を得たことから、老蘇(おいそ)に陣屋を構えた。老蘇は中山道の立場で、江戸時代の絵図には根来陣屋が描かれている。

根来衆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
根来衆(ねごろしゅう)は、戦国時代に紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯(現在の岩出市)に居住した僧兵たちの集団である。雑賀衆と同様に鉄砲で武装しており、傭兵集団としても活躍した。

概要

根来衆を構成した主な一族としては、根来寺の僧坊の一つである杉の坊を拠点とした津田監物をはじめとする津田氏や泉州熊取谷の豪士霜氏などが知られている。 門徒では織田信長を狙撃した杉谷善住坊が有名である。

小牧・長久手の戦いでは雑賀衆と共に大坂城を攻め豊臣秀吉の心胆を寒からしめた。戦後は秀吉による紀州征伐(千石堀城の戦い)が起こり、根来大善(霜盛重)を中心に抵抗した。

雑賀衆の鈴木佐大夫が藤堂高虎に謀殺されると、伊勢に逃れ、徳川家康に従い、成瀬正成を組頭とする根来組同心として内藤新宿に配置される。関ヶ原の戦いの際は正成の組下として活躍する。

根来陣屋:滋賀県近江八幡市安土町東老蘇(奥石神社)  旗本根来氏3450石 

 


探訪【久郷屋敷 近江】2013.7.17

2013年07月18日 | 館跡

久郷氏宅の長屋門久郷氏宅の長屋門・・・改築・新装はされているが、庭・門も素晴らしい、

 久郷氏宅に隣接する住宅の背後の水路

郷氏宅にはいかにも時代を感じさせる長屋門が残り、久郷氏宅に隣接する住居の背後には堀ともいえる水路が残っている。
地元の人はこの水路を農業用の溜め池だというが、どう見ても堀としか見えない。

上田の集落の東端、久郷氏宅付近の遠望

久郷氏は伊庭氏の被官であるとされ、上田の集落の東端、久郷氏宅付近が久郷屋敷と呼ばれる。

付近には久郷前、久郷東の地名の字名も残る。

所在地:近江八幡市上田(近江八幡東中学校の南)


金剛寺城 近江国(安土)

2013年07月18日 | 居城

 金剛寺遺跡遠景

近江守護佐々木六角氏の本拠地は、小脇館・金剛寺城(金田館)・観音寺城と変遷しましたが、3ヵ所はもっとも離れた小脇館と金剛寺城でも5㎞あまりしか離れていません。

 六角氏の祖泰綱の子である頼綱は、晩年に別館を金田の館に住まいを移したことから「金田殿」と称され、その館は「金田館」と呼ばれました。その孫の氏頼が同じ金田に創建した金剛寺は金田館に近接していたか、これを元に建立した寺院と考えられます。

 仁の乱の余波で勃発した六角氏と京極氏の争いに金剛寺も巻き込まれ、文明元年(1469)の合戦で焼失しましたが、同18年(1486)には再興されます。延徳3年(1491)には第二次六角征伐で将軍足利義材の陣所をおくため、近隣諸郡から人夫を徴発して金剛寺城へと造り替えられました。

 

 『近江蒲生郡志』では文明18年に再興された金剛寺の位置を、安土町慈恩寺の浄厳院から南西へ100mあまり離れた「金剛寺」と呼ばれる畑地と推定しています。

近江八幡市金剛寺町は「こんごうじ」と読むのに対して、安土町慈恩寺の「金剛寺」は「こんごうでら」と呼ばれます。

この畑地の周囲には「北堀」「東堀」「南堀」と呼ばれる水田がめぐり、発掘調査でも15世紀末から16世紀代の堀・石積み・ピット群が見つかっており、全体像は判明しないものの城館跡に間違いありません。これが再興金剛寺だとすると、将軍が着陣したのはこちらということになります。

 

 金剛寺城跡には地名のみ、安土の金剛寺遺跡には一段高い畑地が残っているほかは寺・城の名残りは残されていません。しかし、観音寺城以前の六角氏守護所を明らかにするうえで鍵となる遺跡です。今年一月には近江八幡市により金剛寺城遺跡の一部が発掘調査され、建物跡と磚(せん)が出土して注目を集めました。