雪野山古墳から出た鏡の中には三角縁神獣鏡も多数あったのは事実だが、それは被葬者の足下に置かれていて、もっとも重要だと考えられる、頭部近くには三枚の鏡が置かれていたが、そのうちの一枚は同じ三角縁鏡でも、三角縁竜虎鏡であった。
雪野山城
後藤氏の羽田館の詰城:雪野山古墳に築かれた雪野山城だった。
お城のデータ
現 状:雪野山古墳・ハイキングコース
区 分:平山城
築城期:南北朝期
築城者:後藤氏
城 主:後藤賢豊
標 高:308m 比高差:200m
遺 構:石垣・竪堀・畝状竪堀・曲郭基壇
目 標:東近江側・・雪野山公園駐車場・竜王町側・・妹背の里無料駐車場
駐車場:雪野山公園駐車場・妹背の里無料駐車場
訪城日:2013.7.6
(前方後円墳の円墳部分)が主郭ヵ、北に竪堀・土橋カ、西は切岸カ・・・
詰め城として、雪野山の墳丘の雪野山城を築いていた(東近江遺跡シリーズ3・・東近江埋蔵文化財センター)
また、後藤氏は北の有事に備えて城郭【佐生城】を構えていた。
後藤屋敷
雪野山城
アクセス
後藤 賢豊(ごとう かたとよ)は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。
生涯
主君である六角義賢の偏諱を受け、賢豊と名乗った。
賢豊の後藤氏と進藤貞治の進藤氏は「六角氏の両藤」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。
永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務め、永禄5年(1562年)には義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。
永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。
参考資料:東近江遺跡シリーズ3・・東近江埋蔵文化財センター、現地説明板、 ウィキペディア
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