城郭探訪

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黒川氏城 現地見学会

2014年02月04日 | 平山城

甲賀織豊系傑作城郭入門 黒川氏城 現地見学会
日 時 201423日(月曜)
内 容 城郭研究家による本格城郭見学入門講座                                                                  講 師 愛知中世城郭研究会  長谷川博美氏
主 催 米原文化協会城歩会、近江中世城郭調査委員会

事務局  宮本優子氏                                                                                    長谷川氏E-mail wwmy29831@maia.eonet.ne.jp                                                                                         

石垣�石垣城門�石段�石築地跡�横矢と櫓台�櫓群の配置�馬出し曲輪�翳し曲輪

行き止曲輪�竪土塁�井戸貯水槽�水の手曲輪�横堀配置�横掘千鳥の配置�掘切�土塁

甲賀の城�織豊の城�犬走り�帯郭�5間×8間外枡形�土橋21竪掘り21切岸 22喰違虎口

 

左川田氏(踏査協力)

講師長谷川氏(中央)の踏査図・右宮本氏(踏査協力)

参加者の記念撮影14名+2名

現地見学会の踏査図面の概略説明・・・長谷川講師(右2人目)

見学会講師の長谷川博美先生より、作成された縄張り図を元に概略説明がありました。 

縄張り図を見て、まず吃驚、東京ドーム5個強の面積があるという、城郭見学会で最大級。

入城開始

近江ノ国_米ちゃんのblogより

http://84630803.at.webry.info/201402/article_2.html


・住所:甲賀市土山町鮎河(旧:甲賀郡土山町鮎河) map:http://yahoo.jp/QF1HG9
・区分:山城                                                                 ・築城者:黒川与四郎                                                           ・標高:450m 比高:100m 
・現況:山林

・遺構等:堀・土塁・石垣・堀切・石碑・説明板
・時代/人物: 応仁年間(1467~1469)/黒川氏
・主郭まで:県道沿の説明板より15分

・城 域 :220m×330m
・訪城日:2014.2.3

滋賀県中世城郭分布調査より

縄張りで特徴的なことは横堀を多用している点にある。近江において横堀が観られる城砦は、甲賀地方の城館とは異例の黒川氏城の横堀は単に曲輪周囲に巡らせただけではなく、横堀を通路(堀底道)として使うことで敵を誘導、迎撃する横矢の計画的意図がみえ、戦術的に横堀を多用している。

 また、甲賀地方は甲賀五十三家に代表され、あるいは「甲賀郡中惣」にみられるように、独立性の強い小豪族の集まりで、和田氏の城砦をとっても、小さな谷を囲むように和田城・和田支城といった単郭方形の小さな館城(やかたじろ)を幾つも築くパターンが多い。

 一方、黒川氏城は主曲輪を中心とした求心性の強い曲輪配置をしており、甲賀武士とは違った権力構造をもった勢力によって築かれたカ、歴史的には甲賀五十三家の一家である黒川氏の居城。

歴  史

 大河原家・黒川家ともに、近江守護職六角氏(観音寺城主)との繋がりは深く長享・明応の乱(1487~1501)に戦功をたてた。六角氏が9代将軍足利義尚に攻められた長享の乱 「鈎の陣の戦い」に参戦しての勲功により感状を与えられた甲賀二十一家の一で両家ともに「地域連合惣」の北山九家の一です。

大河原源太が鮎川を、 黒川久内黒川・黒滝の地を領有し以後代々子孫が世襲していますが、六角氏が衰退により甲賀五十三家も弱体化していく中、天正13年(1585)羽柴秀吉によって解体されて共に滅びます。

永禄年間(1558~1569年)に黒川玄蕃佐がこの山に築いた城です。

今も頂上には四十間の方形(一間=約1.82m)の旧址があり、また、石垣、石段の一部、堀や屋敷の跡が残っています。

黒川氏は守護六角氏に属し、長亨・明応の頃(1487~1501年)にしばしば戦功をたてます。黒川久内は、六角氏が9代将軍足利義尚に攻められた長亨の乱「鈎の陣の戦い」(1487年)の功により黒川・黒滝を領し、以後子孫が世襲しました。

(この当時は黒川城?)織田信長の上洛阻止に失敗した六角氏のために、家臣辻和泉を東国甲斐武田信玄応援の使者として派遣し、義賢の二男中務大夫賢永を甲斐へ下らせた。天正十三年(1585)の甲賀破儀をもって改易されたが、後に再び本領黒河のみを食封として許された。しかし豊臣秀頼に属して、慶長十九年(1614)、大阪冬の陣に参軍したため領地を失った。

黒川玄蕃佐に至り、黒川氏城を築城し山女原・笹路・黒川・黒滝・鮎河の松尾川東方を支配し、子の八左衛門が継承しましたが、天正十三年(1585年)に紀伊川堤防修築工事の責任を問われ、黒川を除く地域は没収され城は廃城となりました。 

しかし、旗本となった黒川氏の家譜を載せる「寛政重修緒家譜」によれば、黒川玄蕃佐盛治は六角氏からのち織田信長に仕え、徳川家康の 「伊賀越え」にあたっては弟を人質として出し、その後駿府で閑居していた。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時には東軍に属し、 戦後甲賀郡内において800石余を賜り、その子盛至の時、咎めを受けて一旦改易されるが、その後再度旧知を復せられたとある。

その後黒川氏の娘が紀州徳川頼宣の側室として綱教を生み幕下に列せられ、黒河村を復した。

昭和五六年建立

ここで一直線に加工されたような石を見つけました。

何か、神仏に使ったものでしょうか。「青地さん、石のお話ありがとうございます。」

県道へ下山しました。

全員でクールダウンをして、解散です!

甲賀の巨大山城に、感激・感涙しながら・・・米ちゃんと家路に!

 

黒川氏城現地説明板

設置場所・・・県道509号http://yahoo.jp/GjG3Al

参考資料;淡海の城、近江の城郭、長谷川講師の資料12p・説明

本日も訪問、ありがとうございました。