城郭の概要
所在地:甲賀市土山町北土山 Maphttp://yahoo.jp/xaeaEc
築 城 :文明年間(1469~1487)
初城主:土山鹿之助盛忠
区 分 :平山城
遺 構 :空堀、土塁、堀切、土橋、池
土山城は鈴鹿山麓を伊勢に向かって延びる東海道沿いに位置する城郭遺跡です。城郭の遺構は近世東海道における滋賀県最後の宿場、土山宿の北東に位置する丘陵上に残存しています。この城は『甲賀郡誌』では文明年間に土山盛忠による築城、天正年間に滝川益一により落城と伝承されています。
土山城の遺構は現在のところ山頂部とそこから南西に延びる尾根上を中心として大小の郭が残存しています。山頂部に一辺50m前後という最大規模を持つ方形の郭Ⅰがあります。周囲は高さ3m前後の土塁で囲まれ、北および南辺に虎口が1箇所ずつ開口しています。南辺虎口の前面には土塁で囲まれた角馬出状の虎口空間Ⅱが存在しています。城内での位置や構造からこの郭が「主郭」と考えられます。郭Ⅰの北側には規模の小さな郭がいくつか構築されています。その中には縁辺に土塁をもつ郭もあります。また、主郭の北側には竪堀が配されています。
土山城跡平面図(福永清治氏作図)
土山城では、平成21年度に甲賀市が実施した里山森林と遺跡整備を兼ねた事業により、城跡内部が間伐され、遺構へ向かう通路・案内看板が整えられました。城跡内部・周囲の見通しがきくようになり、郭の形状や土塁の残存状況も捉えやすくなり、見学し易くなりました。
緩やかな傾斜の谷筋の山道を約5分ほど登ると、分厚い土塁で造られた虎口に到着する。虎口横の武者隠し的な曲輪が目を引く。
城域は東西に広がる緩やかな丘陵地としている。曲輪配置は丘陵地の高低差を巧みに利用しており、土塁と思えば曲輪の切岸で、切岸を登り、空堀を越え30分は歩き回らないと全貌が掴めない。
主曲輪の東には袖曲輪を介して堀切を2本配置し、また南には土橋を介して馬出し曲輪を設け、虎口は枡形と単純明快な中にも先進的な縄張りがなされている。
郭Ⅱ・Ⅳ間の堀切
残存する遺構は土の盛り切りによって構築されています。この構築手法は城郭としては古い手法だといえます。また、郭Ⅰのように郭の周囲を土塁で囲むという形態は甲賀郡内に残る城郭遺構に類似しています。しかし、土山城の遺構には角馬出状の虎口空間という城郭としては新しいとされる要素も存在しています。この角馬出状の虎口空間については、天正12年の小牧・長久手の戦いの際に羽柴(後に豊臣)秀吉が土山に在陣したという記録があることから、この秀吉の布陣によって構築されたものではないかとも考えられています。そうであれば、もともと「甲賀の在地の城郭」として構築されたものが天正年間に新しいスタイルを取り込んだ城郭として改修されたものであるかもしれません。
一方、郭Ⅰから南西へ伸びる2本の尾根上ではそれぞれ大規模な郭が構築されています。この2本の尾根上に構築された郭は堀切によって区画されています。南側の尾根では土橋により郭間が連絡されている部分もあります。北側の尾根上の郭Ⅲは約70m×30mと規模が大きく、縁辺北東部に土塁の存在が確認できます。南側の尾根で最も大規模(約50m×25m)な郭である郭Ⅳの南西には郭Ⅰで見られるのと同様の角馬出状の虎口空間Ⅴが接続しています。2本の尾根に挟まれた谷部分も段状になった郭として利用されていると考えられ、現状ではこの部分に山麓から郭Ⅰに通じる通路があります。ただ、これらの郭の内部については発掘調査が行われていないため詳しい状況は判明していません。
郭Ⅰの内部
土山城へは麓の甲賀市土山町から城跡に向かう道があります。国道1号線土山支所前交差点から北へ進み通称トラバースロードへ右に曲がり小川を越え50m北へ200m集落内道へと向かいます。集落内の集会所の前を過ぎると南からの登り口があり、説明板が設置されています。 土山城は文明年間(1469~1487)音羽野城主頓宮四方介利盛の二男・土山鹿之助盛忠の築いた城とされる。
土山鹿之助は甲賀武士五十三家で、また二十一家にも数えられる甲賀の名門である。
天正10年(1582)土山左近太夫盛綱に至り、織田信長の家臣滝川一益の甲賀攻めまで子孫相次いで本城の領主であったが、甲賀攻めを契機に滝川氏に属している。
土山城の規模は東西60m、南北50mの主曲輪以外に、広大な空堀や土塁を巡らす住居跡がある。
駐車場登山口付近から50m東に、駐車利用することができます。http://yahoo.jp/PaDl4A
参考資料;淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城・現地説明板
本日も訪問、ありがとうございました。