城郭探訪

yamaziro

山寺城 近江国(草津)

2014年02月17日 | 平山城

 十二将神社の鳥居から山寺城の前を通る道は、今でも「馬場」と呼ばれている。

城郭の概要

所在地:草津市山寺町

区 分:平城

城 主:宇野氏

遺 構:土塁、櫓台、虎口、空堀・水堀、西側郭跡

訪城日:2014.2.13

本殿の西側空堀(操作場を造る際に周辺の城郭遺構が壊されたカ?)

山寺城は十二将神社の東側、竹藪一帯である。
主曲輪の広さは南北30~35m,東西25m程度で、曲輪東側には土塁を築き、南側には土塁を利用した形で虎口、北東隅には5m四方の櫓台が設けられている。
 主曲輪の西側にかけての緩やかな傾斜地の中に、幾つかの曲輪が確認できる。

山寺城は緩やかで入り組んだ谷地を形成する小丘の先端に築かれています。一見して、肥沃な谷地であったと推測されますが、城自体は居館程度の      域を出るものではありません。単郭方形の館城で、土塁と櫓台が残っているという、主郭部は矢竹や雑木で確認出来ず藪漕ぎしないと主郭にはたどり着けない、危険で登城は諦めた。

 十二将神社の鳥居から山寺城の前を通る道は、今でも「馬場」と呼ばれている。この馬場と呼ばれる道の東側は帝産バス会社の操作場となっている。
 この操作場を造る際に周辺の城郭遺構が壊されたカ、主要な遺構を残すような形で造成されている。

 宇野氏の居城とされるが、詳細は不明

在地領主宇野氏の居城と伝わる。宇野喜十郎盛親の名が見られる。子孫宇野氏は、江戸時代も膳所藩の志津郷代官として栄えた。

山寺城の土塁

山寺城の土塁

西側の水堀(北~・南~)

 

大槻神社2の鳥居を背に登城口

主曲輪の西側にかけての緩やかな傾斜地の中に、幾つかの曲輪が確認できる。

山寺城の土塁

山寺城の土塁

山寺城の土塁

本日も訪問、ありがとうございました


小槻(小杖社)大社遺構 近江国(草津)

2014年02月17日 | 遺蹟

小杖社(おづえしゃ)の石碑

・所在市:滋賀県栗東市下戸山1200

・創 建:青地基氏

・創建期:弘安4年(1281)10月

 

小槻大社(おつきたいしゃ、おつぎ)は、滋賀県栗東市にある神社。式内社で、旧社格は郷社。神紋は「下り藤」・「真向の兎」。

別に小杖社(おづえしゃ)・小杖宮・小杖大明神とも称される。

参道脇の大空堀

小槻大社の二の鳥居

竜王社

中世には青地荘の領主青地氏の崇敬を篤した。現本殿は永正16年(1519)4月領主青地元眞が建立・・・・中世武士の気骨をよく表現した建築物として評価は高い。

内陣宮殿は弘安4年(1281)10月青地基氏が新造し、宮殿両側壁に青木基氏以下一族の名が墨書されている。

 

概要

栗東市中部、草津川・美濃郷川合流点の北東丘陵上に鎮座する。川を挟んで南西丘陵上には小槻神社が対峙している。

小槻神社とともに、当地を支配した古代豪族・小槻山君の氏神を祀る神社である。社名は「大社」であるが『延喜式神名帳』での分類は小社であるという数少ない神社の1つである。

本殿と木造男神像が国の重要文化財に指定されている。そのほか、社殿南部には巨大な円墳があり、境内周辺には古墳群(小槻大社古墳群)が残っている。

歴史

社伝では、古代に栗太郡(現在の草津市・栗東市一帯)の豪族小槻山君(小月山公とも)が、祖神として於知別命を祀ったのが創祀とする。

 小槻山君は栗太郡の古代豪族で、朝廷に采女も献上していた。小槻大社内には小槻大社古墳群が残る他、周辺には直径50mの円墳の下戸山古墳、栗太郡衙跡とされる岡遺跡が残っている。これらから小槻山君は栗太郡郡司クラスの家柄だったと推測され、付近には同じく於知別命を祭神とする小槻神社が残っている。小槻山君は貞観15年(873年)京に居を移し、のち小槻氏(官務家)として朝廷に仕えた。

平安時代中期の『延喜式神名帳』では「近江国栗太郡 小槻大社(をつきのおほやしろ)」と記載され、式内社に列している。

小槻氏が移ったのちは、付近に拠点を持つ青地氏の崇敬を受け、社頭が整備された。

明治9年(1876年)近代社格制度において村社に列し、明治14年(1881年)郷社に昇格した。

参考資料:ウィキペディア、現地説明石碑

本日も訪問、ありがとうございました