田んぼの中に残る土塁
お城のデータ
現 状:称明寺・宅地
区 分:平城
築城期:
築城者:
城 主:東野行一? 大橋秀元?
城 域:70m×40m
遺 構:
目標地:称明寺
駐車場:称明寺駐車場
訪城日:2014.9.23
門前参拝者用駐車場(土塁で囲ってます)
お城の概要
尊勝寺地区にある平野神社が尊勝寺城の城址で、平野神社の東~南~西にかけて、高さ2mほどの土塁が巡っている。
土塁は基底部で幅5~6mはあり、かなり分厚い。その周囲を取り巻く幅1mほどの堀もしっかりと確認できる。
平野神社の北側にある称名寺との間の田んぼの中に、長さ20mほどにわたって土塁がしっかりと残っており、城域としては南北70m,東西40mぐらいであろうか。
歴 史
平野神社の北側に位置する称名寺は、湖北十ヶ寺のひとつで津布良山と号し、もとは美濃国安八郡津布良荘奥村(現大垣市あたり)に寺基をおいたが、文明13年(1482)に教円が本願寺蓮如に帰依し真宗に改め天正年間(1573~1592)に近江に移ったとされる。
従って、尊勝寺城の跡に称名寺が建てられたと考えるのが妥当であるが、称名寺は方一町ほどの堀で囲まれた「多賀古屋敷」と呼ばれる土豪居館の跡に建てられており、平野神社を含む、複雑な複合遺跡である。
また、この尊勝寺が小谷城下の一部であったとも考えられている。
なお、称名寺は湖北十ヶ寺衆として、元亀年間(1558~1573)に浅井氏と連合して織田信長に対抗したと考えられている。
天正5年(若しくは同7年)8月17日の顕如消息によれば、信長の加賀出兵に際して、称名寺の教宗が北陸に下されており、天正年間(1573~1592)の石山合戦にも参戦していたようである。
湖北十ケ寺と称される湖北を代表する浄土真宗寺院のひとつ。浅井長政に与し、民衆と共に織田信長に対抗しました。
その後は長浜城主の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に協力し、本能寺の変で明智光秀軍が長浜城を攻めたとき、住職の性慶は秀吉の母なかと妻のおねを岐阜へ連れて逃げています。こうしたことから、称名寺は秀吉に手厚く保護されました。
江 北 十 ヶ 寺
福田寺 (長沢城) |
誓願寺 |
福勝寺 (福勝寺城) |
浄願寺 | 順慶寺 |
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坂田郡近江町長沢 | 坂田郡近江町箕浦 | 長浜市大戌亥町 | 長浜市榎木町 | 長浜市西上坂町 |
金光寺 |
中道場 (授法寺) |
真宗寺 (増田城) |
称名寺 (尊勝寺城) |
誓願寺 (内保城) |
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長浜市十里町 | 長浜市西上坂町 | 東浅井郡びわ町益田 | 東浅井郡浅井町尊勝寺 | 東浅井郡浅井町内保 |
蓮如が寂した年があけると十六世紀。日本史の上で最大の内乱時代「戦国の世紀」の幕が開く。この乱世に本願寺は、信長の天下制覇をさえぎる巨大な法城にまで発展していく。
そして、福田寺は本願寺十一世顕如の時代に、石山本願寺を支える軍事力の重要な柱石となり、このころ福田寺は「長浜御坊」と称される小法寺を形成していく。
やがて、慶長元年(1596)、長浜御坊大通寺が建立されるが、このとき、福田寺をはじめ十ヶ寺は御坊建立の肝煎役をつとめている。
本願寺と福田寺に隆昌をもたらした力は何処にあったのか、それを知るためには、信長の覇権阻止に死闘を続けた湖北一向一揆をかえりみなければならない。
湖国の一揆は、湖東、湖西、湖北の三つの地域で燃え上がった。湖北三郡を中心として、浅井・朝倉の勢力と連携して信長と対決した江北一向一揆は、湖北の有力寺院十ヶ寺が結束した。その筆頭に立ったのが、福田寺十一世覚世であった。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城
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