城郭探訪

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淀古城2つ 【淀小畠城と淀藤岡城】 

2016年08月01日 | 平城

京都「淀古城」2カ所あった? 古文書から大学専任講師推論

                                                          【京都新聞 2016.8.1】

岡本雅男家文書から見つかった土地売券。1536年2月1日の文書で淀周辺の土地売買の様子が記されている(長岡京市提供)

 戦国時代の京都市伏見区の淀や納所の状況を表す古文書が、京都府長岡京市所蔵の「岡本雅男家文書」から、このほど見つかった。調査した大阪大谷大専任講師の馬部隆弘さん(40)は文書の土地売買の状況から、通説では納所にあったとされる中世の「淀古城」が実際は、「納所」と淀川の中州にあたる「島之内」の2カ所にあったとの推論を導き出し、専門誌「古文書研究」で発表した。現在の淀城跡がある島之内の開発が従来の見解よりも早い15世紀末までには進んでいたと想定し、地域史の見直しを問いかけている。

■納所「淀小畠城」と島之内「淀藤岡城」

 見つかった15通の文書は淀周辺の土地売券だった。特に多かった納所郷の売券からは文中に出てくる「小畠氏」が納所郷にあったとみられる荘園の下司(荘園の役人)を務め、納所を拠点としていたことが分かった。

 小畠氏が拠点とした納所の城は、後に管領細川氏が入った際にも「淀小畠城」と呼ばれ、その跡地には豊臣秀吉が城を造営している。通説では、島之内の開発に伴い、江戸時代に入って納所から島之内に城が移転したとされてきた。

 小畠氏以前には、石清水八幡宮の神人(じにん)(下級神職や住民)勢力とされる「藤岡氏」が「淀古城」に入城したとされている。馬部さんは当時の内乱(薬師寺の乱)で、参戦者が納所から淀小橋を渡って「淀藤岡城」に退却したとの記録が従来からあったため、藤岡氏の城は納所でなく、島之内と考えていた。

 馬部さんは、有力な神人だった藤岡氏が、その財力で当時からいち早く中州の開発を進め、島之内に「淀藤岡城」を築いていたと推察。小畠氏らの武家勢力は神人勢力圏の島之内に入れず納所にとどまらざるをえなかったと解釈し、納所の「淀小畠城」と島之内の「淀藤岡城」の二つの拠点が存在したと結論づけた。

 馬部さんは「戦国時代の淀でやりとりされた古文書は初めて出てきた。当時の淀は神人勢力中心の集落と武家勢力が治める地域と、城を核とする二つの世界が交錯する複雑な地域構造を呈していた。江戸時代初頭の淀築城、それを一元化するものだったと評価したい。文書の発見で淀の地域史の研究がさらに進む」と期待する。