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野一色 助義(のいっしき すけよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。中村一氏の家臣。通称は頼母。
近江国坂田郡廼一色出身。中村一氏に家老として仕える。石高は8,000石。豪傑として知られる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前夜に起こった杭瀬川の戦いでは、一氏の弟・一栄(一氏が合戦前7月に死去したため陣代)に従い 島清興軍と衝突。敵を追撃しようと橋を渡ったところで伏兵に遭い、これに猛撃される。
乱戦の中、金の三幣の指物をつけて、騎馬で手強く奮戦するも深田に足をとられ宇喜多氏の家臣の浅賀左衛門(左馬助)に討ち取られた。後から追いついた家臣の奮戦により、首は奪われずにすみ、兜塚(大垣市赤坂西町)に着用の鎧兜と共に葬られたと伝わる。
助義の首と鎧兜が埋められたと伝わる鎧塚(岐阜県大垣市赤坂西町)
家督は三男の義重が継いだ。次男・助重は大阪の陣で東軍に属するも戦死、四男・助忠は池田忠雄の家臣となった。
野一色頼母
近江出身の侍。1548-1600(天文17-慶長5)。佐々木支族というから南近江の六角氏に仕えていた。
六角氏の滅亡後は織田系の将校の家臣に、秀吉子飼の古参の中村一氏に仕え。中村一氏は四国征伐や小田原征伐とかの軍功により近江水口城主から駿府城主17万石になった。
本来東海道の駿河といえば関東の家康抑えの重要拠点で中老職となった、一氏は浜松の堀尾吉晴同様に家康牽制の重要な役割を担っていました。
一氏を困らせたのが東海道の付け根、尾張清州の福島正則と三河吉田(豊橋市)の池田輝政が家康への急接近。結果的に遠江掛川の山内一豊が家康に全面的にくらがえったことから若手大名がこぞって家康についてしまったのです。
中村一氏は本来は前田利家を頼って親豊臣にいる人物でした。しかし関ケ原の2ヶ月前に他界、あとは中村家の家督を実弟の一栄に託す。
野一色頼母はその侍大将として従っていましたが、中村家は当主が幼君の一忠だったこともあって常に戦陣の後方を拝す立場にあってなかなか軍功の先陣にありつけず、東軍が大垣城を囲んだ際に、到着した家康の御前の前で活躍しようと大垣西方の杭瀬川で西軍の島左近・明石掃部に対して有馬隊とともに戦いを挑み、西軍は“青田刈り”といって付近の兵糧となる稲を刈って東軍を挑発しておびき寄せました。 この挑発に乗った野一色頼母は中村隊を率いて深手にハマり敵の挟撃にあって敢え無く命を落とした。不幸にも東軍の戦勝前に討ち死になってしまいました。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア(Wikipedia)、佐々木南北諸氏帳、淡海国木間攫
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