城郭探訪

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津田城 近江国(近江八幡市)

2016年08月13日 | 平城

津田城


遺跡ウォーカーの比定地 

お城のデータ

 

近江八幡市北津田町 map: http://yahoo.jp/9NOp1C

現 状:集落

区 分:平城

築城期:

築城者:

遺 構:石垣

目標地:前出のむべ家

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.7.25

     

お城の概要

近江八幡市北津田町にあったされる、津田城だが詳細不明。

旧野洲郡岡山村の北津田集落にあったとされる平城。

北津田集落内の微高地に位置する。集落にある北津田城の平治の居館跡か?

津田氏(織田氏)発祥の地(南津田)

近江八幡市南津田町に津田親眞を顕彰する石碑が建立されている。ここが織田信長のルーツであるとか。
 信長は、織田家の嫡流以外の家には出身地の津田姓を名乗らせたという。

例えば津田信澄である。若き日、信長は家督争いで弟信行を殺害している。信澄は、この信行の息子である。

 近江国大溝城主であった津田信澄は、本能寺の変のあと、明智光秀の娘を娶っていたために信長の子信孝に殺害される。

信長の一族で、津田姓を名乗るのは、この信澄以外にも多くいる。

お城の歴史

詳細不明。


  

集落のグランドに「むべ」

  

不老長寿伝説
 
~天智天皇のむべなるかな~
 
蒲生野に狩りに出かけた天智天皇がこの地で、8人の子供を持つ大変元気で健康的な老夫婦に出会いました。
天智天皇がこの老夫婦に、「汝ら如何に斯く長寿ぞ」と長寿の秘訣を尋ねたところ、老夫婦は、「この地で取れる無病長寿の霊果を毎年秋に食します」と言いながら、ひとつの果実を差し出しました。それならば食べてみようと天智天皇もその果物を一口食べました。すると、「むべなるかな(もっともであるな)」と一言天皇は言ったのです。
 
この時に発した「むべ」という言葉がそのまま果物の名前の由来となりました。
そして、これより朝廷に毎年献上することになったのです。
 
 
10世紀の法典集「延喜式」31巻には、諸国からの供え物を紹介した「宮内省諸国例貢御贄(れいくみにえ)」の段に、近江の国からムベがフナ、マスなど、琵琶湖の魚と一緒に朝廷へ献上されていたという記録が残っています。
以後、北津田町は朝廷や幕府からの賦役の免除、献上の道中に帯刀するなどの恩典を受けました。献上は1982年まで続きました。天智天皇を祭神とする大津市の近江神宮へも1940年の創祀(そうし)以来、毎年献納を続けています。

参考資料:遺跡ウォーカー、城郭分布調査1、

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飯福寺遺構(鶏足寺別院) 近江国(木之本)

2016年08月13日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町古橋町  map:http://yahoo.jp/xKWEMP

別 称:鶏足寺別院

区 分:城郭寺院

現 状:鶏足寺(旧飯福寺)

標 高:211m   比交差:34m(石道寺より)

築城年:

築城者: 

遺 構:石垣・坊跡 

目標地:石道寺の裏山

駐車場:石道寺の車場

訪城日:2016.6.26

お城の概要

木之本の石道寺裏山を越えて入る。

古橋から入るのが本来の道のようである。が、今は廃寺か?(無住寺)。しかしその後村人の努力により現在のように整備され「幽遂の仙境遠く俗塵を離れたたる古刹」の面影を残しつつ大切に守られている。

 本堂までの参道両側には石垣が積まれ、城郭寺院の面影をとどめている。また参道両脇にはもみじの木々が茂り、若葉,紅葉の時期には見事な景色を楽しむことができる。

鶏足寺(旧飯福寺)は、中世には僧兵を要するほどの大寺で、緩やかな参道の石段や苔むした石垣などの佇まいは今も往時を偲ばせます。秋は境内を埋める200本ものモミジの古木が紅葉し、一層の由緒深さが感じられます。現在は廃寺となっており、普段は地域住民の手によって管理がなされています。 秋は紅葉の名所「鶏足寺」として、毎年多くの方が紅葉散策に訪れることで知られています。 ゆるやかな参道の石段、苔むした石垣に二百本のもみじの古木が幽玄な情景を醸し出しています。

お城の歴史

鶏足寺(旧飯福寺)概要:現在鶏足寺と合併 

鶏足寺の創建は天平7年(735)、行基によって開かれたのが始まりと伝えられています。

その後衰退しましたが延暦18年(799)に最澄が再興すると寺運が隆盛し己高山は天台宗の一大霊場として多くの寺院が集まり、その中でも己高山七大寺(己高山五箇寺とも)の1つに数えられました。

文永6年(1269)に真言宗に改宗、中世は京極氏や浅井氏など歴代領主の祈願所として庇護され多くの僧兵を擁していました。

江戸時代に入っも徳川家から寺領が安堵されていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈運動により急速に衰退し昭和8年の火災により事実上廃寺となります。寺宝の多くは鎮守社であった与志漏神社の境内にある己高閣、世代閣に移されています。

            

中世には僧兵を擁するほどの大寺で、時の権力者の庇護を受け安定した寺運を続けましたが、江戸幕府の終焉とともに衰微しました。

                     

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査、長浜市観光情報

本日の訪問ありがとうございす!!


野一色城 近江国(山東)

2016年08月13日 | 平城

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡山東町)野一色町  map:http://yahoo.jp/2vAfA7

区 分:平城

現 状:八幡神社一帯

標 高:ーm   比交差:-m

築城年:織豊期

築城者: 野一色氏

遺 構:土塁・空堀

目標地:八幡神社

駐車場:八幡神社駐車場

訪城日:2016.5.12

         

滋賀県中世城郭分布調査『旧坂田郡』に野一色城の説明ある。

お城の概要

大原氏始祖重綱よりいでし、野一色氏の居館。近世に入り徳川氏に仕え功績により2000石を与えられ幕末に至る。

居館は三方土塁・空堀を巡らし、その外側にも土塁の残欠が認められる。

明治初期の大絵図に、その規模を知ることができる。また北東の鬼門の方に八幡神社存在する。

 

           

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 野一色 住 佐々木隋兵 野一色刑部・野一色 住 佐々木大原末 野一色男 介七」の名が見える。

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 野一色村 野一色氏ハ大原源太郎重綱ヲ以テ祖トス、世々京極家・浅井家に属ス、頼母

之介ト云シ人ハ江北横山ノ城ニ於テ一番槍ヲ合テ高名ヲ躇ス、慶長ノ逆乱ニ働キアリ、記ニ載ス、孫流相続セリ」と記す。

野一色助義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

野一色 助義(のいっしき すけよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。中村一氏の家臣。通称は頼母

近江国坂田郡廼一色出身。中村一氏に家老として仕える。石高は8,000石。豪傑として知られる。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前夜に起こった杭瀬川の戦いでは、一氏の弟・一栄(一氏が合戦前7月に死去したため陣代)に従い 島清興軍と衝突。敵を追撃しようと橋を渡ったところで伏兵に遭い、これに猛撃される。

乱戦の中、金の三幣の指物をつけて、騎馬で手強く奮戦するも深田に足をとられ宇喜多氏の家臣の浅賀左衛門(左馬助)に討ち取られた。後から追いついた家臣の奮戦により、首は奪われずにすみ、兜塚(大垣市赤坂西町)に着用の鎧兜と共に葬られたと伝わる。

助義の首と鎧兜が埋められたと伝わる鎧塚(岐阜県大垣市赤坂西町)

家督は三男の義重が継いだ。次男・助重は大阪の陣で東軍に属するも戦死、四男・助忠は池田忠雄の家臣となった。

野一色頼母

近江出身の侍。1548-1600(天文17-慶長5)。佐々木支族というから南近江の六角氏に仕えていた。
六角氏の滅亡後は織田系の将校の家臣に、秀吉子飼の古参の中村一氏に仕え。中村一氏は四国征伐や小田原征伐とかの軍功により近江水口城主から駿府城主17万石になった。
 本来東海道の駿河といえば関東の家康抑えの重要拠点で中老職となった、一氏は浜松の堀尾吉晴同様に家康牽制の重要な役割を担っていました。
 一氏を困らせたのが東海道の付け根、尾張清州の福島正則と三河吉田(豊橋市)の池田輝政が家康への急接近。結果的に遠江掛川の山内一豊が家康に全面的にくらがえったことから若手大名がこぞって家康についてしまったのです。
 中村一氏は本来は前田利家を頼って親豊臣にいる人物でした。しかし関ケ原の2ヶ月前に他界、あとは中村家の家督を実弟の一栄に託す。
 野一色頼母はその侍大将として従っていましたが、中村家は当主が幼君の一忠だったこともあって常に戦陣の後方を拝す立場にあってなかなか軍功の先陣にありつけず、東軍が大垣城を囲んだ際に、到着した家康の御前の前で活躍しようと大垣西方の杭瀬川で西軍の島左近・明石掃部に対して有馬隊とともに戦いを挑み、西軍は“青田刈り”といって付近の兵糧となる稲を刈って東軍を挑発しておびき寄せました。 この挑発に乗った野一色頼母は中村隊を率いて深手にハマり敵の挟撃にあって敢え無く命を落とした。不幸にも東軍の戦勝前に討ち死になってしまいました。
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア(Wikipedia)、佐々木南北諸氏帳、淡海国木間攫
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