長光寺陣所跡を思わせる長光寺(武佐寺)
お城のデータ
所在地:近江八幡武佐町 map:http://yahoo.jp/QztJuE
区 分:陣所
現 状:長光寺(武佐寺)
標 高:ーm 比交差:-m
築城年:鎌倉期 永正3年(1506)
築城者:
遺 構:長光寺
目標地:長光寺
駐車場:長光寺
訪城日:2016.8.9
中世東海道(東近江市「能登川の歴史2巻53頁」より)
お城の歴史
南北朝以降戦乱に巻き込まれることが多く、文和年間(1352-56年)には足利尊氏は後光厳天皇を奉じて武佐宿へ、義詮は摂津を経て播磨国鵤宿へ落ち延びた。
文和四年(1355)正月中旬後光厳天皇、乱を避けて当寺に駕籠を駐め賜ふ。 康安元年(1361)十二月再び臨幸ましまし、六十日間御駐輦(ちゅうれん)あらせられたり
足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男。
元弘3年(1333)、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・尊氏が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに方丈家の人質として鎌倉へ留め置かれた。
尊氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した。
この際千寿王は、父の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付し、後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒を作る。これが新田義貞と足利高氏の関係が悪化する元となる。建武の新政では、叔父の直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。
尊氏による幕府開府後、足利家の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、師直のクーデタにより直義が失脚すると、義詮は京都へ呼び戻され直義に代わり幕府の政務を任される。
正平6年(1351)8月には、尊氏が直義派に対抗するために義詮と共に南朝に降伏し、11月に年号を南朝の「正平」に統一する正平一党が行われる。翌年に南朝方の北畠親房や楠木政儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した結果、光巖、光明、崇高天皇の三上皇及び皇太子の直仁親王を奪われたが、観応の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還し、三種の神器の無い状態で新たに後光厳天皇の即位を実現させる。また、正平8年(1353)6月、正平10年(1355)1月にも異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われている
文和三年(1354)十二月に、南帳軍の足利直冬・桜井直常らが京へ迫った際に、「支えきれない」と判断した足利尊氏ら北朝軍が、後光厳天皇とともに避難した先が「江州武佐寺」『太平記』
武佐寺略記
当寺は所謂、武佐寺の一部にして推古二年甲寅二月聖徳太子、武阿綱に命じて伽藍を此の地に建立し賜ひ、之を武作寺と称す。
村名、武佐の由りて来る所、蓋し此れによるか。由りて自ら彌陀の像を作り其の一堂に安置し名付けて東金堂と云う。即ち当寺是れなり。
また別に観音の像を作りて別堂に安置し名付けて西金堂という。
今の長光寺是れなり。 当寺爾来天台宗に属せしが嘉禎元年(1235)四月見真大師(親鸞聖人1876年追贈)関東より帰路の途次寄錫あり。
寺主大師に謁して聞法随喜し直ちに師弟の契りを結びて其時より真宗に帰す。大師のちの名を大同房了仙と賜い六字尊号に所持の念珠と和歌
○南無阿弥陀仏をたのむ人なればなればみなたすくべき近いなり
○百八の心なからに称ふれば 南無阿弥陀仏にめぐりあふなり
○くりかえしくりかえしても尊きは南無阿弥陀仏の御名にぞありける
と三首を添えて、汝我を見んと思はば此の記念を見るべし と。 是等の品今なお当寺に宝蔵す。
元暦元年(1184)四月左近衛中将平重衡朝臣、鎌倉へ護送せらる時、当寺に詣で本堂の柱に
○世のうきめみつつ近江の武佐寺や広く済はん法ぞうれしき と題して去れり。
惜哉、其後兵火のために其堂焼失せり。
文和四年(1355)正月中旬後光厳天皇、乱を避けて当寺に駕籠を駐め賜ふ。
康安元年(1361)十二月再び臨幸ましまし、六十日間御駐輦(ちゅうれん)あらせられたり。後、貞治元年(1362)当寺住持還栄を法眼僧都に叙し、彌陀の古像一軀(安阿彌の作と云ふを賜ふ) 即ち今の本堂御本尊これなり。此時より太子御自作の阿弥陀如来は之を内道場に安置することとなれり。
永正より天正に至る年間に加賀国本願寺の所領となれりし時、当寺の住持祐乗、實如上人の命を受けて加賀国を治む。 由りて金沢に一寺を建立して広済寺と称す。
天正十五年(1587)当寺主、嗣子なきを以て之を本願寺に求む。顕如上人のち安休房西周に命じてその嗣となす。
安休は浅井久政の子にして徳川家の姻戚たり。是を以て家康、秀忠の二公の寵遇を受け、廔々幕府に召され拝受せし数二、三に止まらず。
参考資料:東近江市「能登川の歴史2巻」、武佐寺略記、Wikipedia、近江八幡市の歴史第六巻
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