お城のデータ
別 称:松井石見守邸
所在地 : 滋賀県東近江市一式町(旧神崎郡永源寺町一式) map:http://yahoo.jp/OGYYDx
区 分 : 平城
築城者:一色相模守相吉(一色氏は、足利泰氏の子公深が三河吉良荘)が、一色を領して一色氏を称した。
城 主:一色相模守相吉(一色氏)、松吉石見守重吉(六角の臣)
遺 構 : 堀跡、物見櫓台
訪城日:2013.4.22
お城の概要
『近江蒲生郡志』には、松井石見守邸阯は、市原村一式に在り、四周に濠と土手を回らし東北角に物見櫓中央に井戸あり、此邸は始め一式氏の住せし所なりしが後ち松井氏代り住せり。と記す。
城は、一式町の中心部が城域で、一式のバス停のある集会所に案内板がある。
道路を挟んで北側に見える【戦いの神若宮八幡】が祀られ、本丸跡と見られ、外側の現在道路辺りが堀跡とされている。
神社の太鼓堂が建つところが、物見櫓があったところとされ、本丸内でも一段高くなっていて、今は大石による石垣が組まれている。
一式城は、築城年代は定かでないが、一色相模守相吉によって築かれたとか。
一色氏は、足利泰氏の子公深が三河吉良荘一色を領して一色氏を称した。
一色は、室町幕府四職家の一つで丹後・若狭・近江に一族が所領。
一色氏没落後、戦国時代には佐々木義賢の物頭 松吉石見守重吉が居城し、六角氏滅亡と共に廃城となった。
歴 史
愛知郡志に「此邸は始め一色氏の住せし所なりしが後ち松井氏(松吉氏の誤り)氏代り住せり」と記している。
『大洞弁天当国古城主名札』には城主 松居石見守を、『江州佐々木南北諸士帳』には松吉石見守を記す。
現地説明板は、永禄年間(1558~70)一色相模守相吉、一色石見守重吉が城主としている。
なお、永禄11年(1568)9月織田信長の近江侵攻に際し、六角氏を見限り蒲生氏、速水氏らと共に信長に降ったと見られている。
明治初期の一式村地誌に「近世迄一重小堀土隄等アリテ四囲セシカ、今開墾シテ畑地或ハ草生地トナル。此面積三百五拾坪許」、近江蒲生郡志八には測量図を載せ、四周に壕と土手を巡らし東北隅に物見台、中央に井戸があったとするが、現在は詳細不明である。 と記されている。
また、集会所の南側に上門・下門、北西に城ケ塚など、城郭に関連する小字名も残されている。若宮八幡神社付近や北側と西側の水路に若干遺構らしさが残る。、二重に堀があったと伝承されている。
『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「神崎郡永源寺町一式」、創建者は「一色相模守相吉」、形式は「平城」です。城の歴史は「一式城の由来は一色氏がこの城に常住したことによる。一色氏は足利氏の支族で、足利泰氏の子公深が、三河吉良荘一色に住んだのに始まり、その子範氏は足利尊氏に従い九州で活躍。のち、丹後・若狭・近江に分散し、四職家の一つとして重きをなしたが、義貫が足利義教に嫌疑をかけられて自殺して以後衰退し、佐々木六角氏の臣松吉石見守重吉と交代した。織田信長が千種越や、八風越で当地へ進出すると、浅井長政は鯰江城を攻略し、一式に一揆を起こさせ成功しているのは、一式城があったことと松吉石見守がいたためである。しかし、佐々木氏の滅亡と同時に一式城も焼亡した。(後略)」とあります。なお、神崎郡永源寺町一式は現在東近江市一式町になっています。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、愛知郡志、蒲生郡志、淡海の城 他
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