信楽~多羅尾県道138号線 小川口バス停すぐに案内板
お城のデータ
別 称:小川鶴見城
所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町小川 map: http://yahoo.jp/ba8ETw
区 分:山城
標 高:470m 比高差:120m
現 状:山林・公園
遺 構:曲郭・土塁・堀切・石垣・説明板
築城期:室町期・・嘉吉三年(1305)
改築期:織豊期(天正年間)
築城者:鶴見伊予守定則(道宗)
改築者:多羅尾光俊
廃 城:文禄四年(1595)
駐車城:主郭すぐ5分
目標地:林道の入口は県道138号線天満宮の鳥居のやや北東側に小川城の道標が出いる。
訪問日:2012.8.31
お城の概要
車で林道を進み5分程度登りますが、(対向車のないこと祈りながら)。山頂の主郭のすぐ下まで林道があり、普通車クラスなら車で登ることができる。林道の入口は県道138号線天満宮の鳥居のやや北東側に小川城の道標が出ており、これにしたがって林道を進めばよい。
小川城は小川集落の南東にある標高470.4mの通称城山山頂に築かれている。
主郭は南西から北東方向に伸びた山頂部に築かれており、南西端に櫓台を設けた土塁で囲まれた曲輪で、北西側に虎口があり力石がある。土塁が屈折した形状で草で覆われ確認できないが、礎石が残されているという。北東側は土塁で区画された削平、小段と続き、南西側は堀切で区画され東屋の建つ曲輪がある。南へ続く尾根は堀切で遮断され、北西の中之城に続く尾根にも一郭あり、尾根は土塁と堀切で遮断されている。
大光寺には近衛家基とその子経平そして多羅尾氏の祖となった高山太郎師俊の墓があり、多羅尾氏の墓所もある。
城址は整備され、思った以上の規模と遺構に満足。主郭は土塁が巡り、遠くから主郭を見ると半地下状に見えて印象的です。また、僅かですが土塁の内側に石垣も見ることができます。さらに、南側の谷を挟んだピークに出丸と思われる箇所も認められます。城址よりは信楽中心部が見渡せ、眺望がとてもいいです。
中の城へも案内が!。案内板には中の城と小川城の間は1.5Km(中の城と県道までは500m)と表記ありますが、ここもそんなに長い距離とは思えません。途中には小郭が二箇所、堀切が数箇所認められ、本城と支城の間の連絡道が完存してる支城と本城との繋ぎ道。
歴 史
小川城は嘉吉三年(1305)に鶴見伊予守長実によって、あるいは、富永俊盛によって築城されたと伝えられる。
しかし、山頂城址からの出土品などによって、正安二年(1300)に鶴見伊予守定則(道宗)の築いたとするのが 定説となっている。
永享元年(1487)、鶴見氏を逐った多羅尾氏の拠るところとなり、天正年間、多羅尾光俊が 改築したものがいまに残る城址という。
広域農道から、小川城址へ。林道を、対向車が来ないことを祈りながら・・・・!
Ⅴカーブ空きスペースに、車をUターン・駐車して、林道を登りました。
Uターン・駐車スペース
小川城址に到着
主郭へ
縄張り(教育委員会)
小川地区を流れる中手川を挟んで東に小川城・中ノ城、西に小川西ノ城が築かれている。 主城の小川城へは標識に従って林道を歩くこと約30分。 きれいに整備された山頂の城跡に着く。
小川城は、山頂部一帯を利用して築かれ、主郭部には3つの曲輪がある。 主郭部の表口は左右に土塁が築かれ、その正面に「力石」がある。 この虎口の右側は三角点のある最高所で物見台であっただろうと思われる。
虎口左側は、周囲を土塁に囲まれた曲輪があり、北側の土塁下部に石垣が一部見られる。 この曲輪の東側には城内で一番広い曲輪があり、ここも周囲を低い土塁が廻らされている。 小川城の標柱脇から堀切と土塁が残る出丸を経由して、小川中ノ城へと降りることができる。
三角点のある最高所で物見櫓址(探訪記念にmy poole)
物見櫓址から、2郭を・・・内側に石垣・基礎石が!
主郭址には、東屋が!
3の郭址
郭の基礎石
土塁の内側の石垣。
二の郭の土塁から絶景(寒い!風が強い!)
天正十年(1582)、本能寺の変に際して甲賀から伊賀を通って三河へ逃げ帰った徳川家康が、甲賀で一夜を 明かしたもは本城であったとも伝えられている。
信長死後、豊臣政権に生き残った多羅尾氏であったが、 文禄四年(1595)、豊臣秀次の罪に連坐した多羅尾氏は没落、 小川城も廃城となった。
城址を歩くと土塁、堀切、虎口などがよく保存・整備され、石垣もわずかだが残っている。 城址からの展望は抜群で、登山の疲れを一気に吹き飛ばしてくれる風景が広がる。
3の郭址
小川城は、嘉元3年に鶴見伊予守によって築城されたとされているが、小川俊盛によって築かれたとの説もあり、築城年代・築城者については定かではない。
戦国時代、小川城は多羅尾氏が城主となり、信楽一帯の盟主として勢力を誇ったが、文禄4年に豊臣秀次事件に連座し改易され、小川城は廃城となった。
その後、慶長5年に多羅尾氏は徳川家康から1,500石を与えられ、旗本として代々天領代官(多羅尾陣屋)を世襲して明治に至った。
トイレや東屋に小川城の歌・ベンチ・桜・モミジ・・・・残念。
遺構がしっかり保全されているにも、公園化され過ぎて! 家康が必死で堺から国元に逃避の、公園化で魅力半減
夜になって、ようやく家康一行は多羅尾氏の本拠小川に到着した。城主多羅尾光俊は永正十一(1514)年生まれで、当時69歳。ちなみに光俊は、後の秀次事件に巻き込まれて一時浪人する羽目になるが、秀吉没後に家康に仕え、慶長十四(1609)年二月四日に96歳の大往生を遂げている。
さて家康は、城の向かいの小高い茶山に腰を下ろし、館の中を見下ろして油断なく様子を窺い、なかなか門の中に入ろうとはしなかった。
そこで、光俊父子は名物の干し柿や新茶を振る舞ってねぎらい、また村人は総出で赤飯を炊いて一行をもてなした。これでようやく家康も安心したかして館に入ったという。なお、このとき家康はよほど空腹だったと見え、箸も取らずに手掴みで赤飯を口にしたと伝えられている。
この城は小川郷の東にある城山の山頂にあり、当時麓には小川東城(西ノ城とも)・中ノ城があったという。天正二(1574)年の「杉谷陣屋配陣」に小川土佐守秀三・小川孫一郎貞勝・多羅尾入道道可(光俊)の三人が小川城主とされていることから、多羅尾氏を中心に三城とも機能していたものと思われる。築城時については、嘉吉三(1305)年に鶴見伊予守長実によって、またこれとは別に小川氏を名乗った富永俊盛によって築城されたとも伝えられるが、それらはいずれも麓の二城と見られ、山頂のこの城は出土品などから正安二(1300)年に鶴見伊予守定則の築いたものを天正年間に光俊が改築したものではないかとのこと。また鶴見氏と小川氏は類縁関係もあることや伝承から、甲賀地方に多い複姓を持つ一族である可能性があるらしい。つまり、同族ということである。
長享元(1487)年のいわゆる「鈎(まがり)の陣」の際に、将軍義尚方にあった鶴見成俊は六角高頼方の多羅尾光義(光俊の祖父)に城を攻め落とされ、山城東部の地侍椿井播磨守澄政を頼って奔り、和束郡杣(そま)郷に隠れた。以来ここ小川は多羅尾氏の支配下になる。そして天正年間に光俊により再築されるが、文禄四(1595)年に豊臣秀次に連座して多羅尾氏は失領、城は廃城になるという歴史を持つ。右の写真は「鈎の陣」の際に将軍義尚が安養寺から本陣を移したとされる真宝館跡の永正寺(現滋賀県栗太郡栗東町)である。
小川で家康は一泊した。この時城内の片隅に一つの社を見つけた家康は、光俊に「何をお祀りしているのか」と尋ねたところ、「愛宕大権現にて、ご神体は将軍地蔵でございます」とのことだったので、社の前に進んで恭しく拝礼したという。そこで、光俊は「これも何かのご縁でしょう。あなた様のお顔には近々天下を治められる相が表れています。どうぞこのご神体を信仰なさりませ」と、これを家康に献上した。
家康は大いに喜び、後に江戸幕府を開いた時に、江戸城を見渡せる芝の小高い丘の上に、このご神体を祀って社を建てた。これが江戸の守護神・愛宕大権現の由来とされ、後に鉄道唱歌で歌われる愛宕山は、この遺跡である。
なお、家康が泊まったのは、小川から南へ一里半ほど行った多羅尾の居館(甲賀市多羅尾)とする説もあるが、江戸初期の小川付近古地図に朝宮~杉山~小川~丸柱へ抜ける道を「神君御通路」とあることから、この稿では家康はここ小川城に泊まったものとさせていただくことにする。
左の写真は多羅尾氏居館跡の入口だが、現在ここは私有地で入口が封鎖されており(画面下部にバリケードあり)、中に入って様子を見ることが出来ないのが残念である。
翌朝、甲賀の和田八郎定教(伊賀守惟政の弟)が参上して合流、一行は御斎峠へ向かって出発した。
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今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。