所在地:滋賀県長浜市公園町10-10(豊公園)
遺 構:模擬天守、石垣、堀、井戸跡
形 式:平城(水城)
築城者:羽柴秀吉
築城期:天正元年
訪城日:2013.4.21
天正元年(1573年)浅井氏の小谷城を陥落させた武功により浅井領12万石を拝領した羽柴秀吉は、はじめて城持ちの大名となりました。当時今浜と呼ばれていた地を「長浜」と改名し、城づくりに必要な材木を小谷城などから転用して築城されました。後に三代目の城主として、大河ドラマでおなじみの山内一豊が5年間在城しています。
そして江戸時代になり、徳川家康によって廃城された長浜城の石垣や部材は、大通寺(長浜市)などの寺社や彦根城の築城に利用されました。彦根城天秤櫓は長浜城の遺構と伝えられています。
昭和58年に安土桃山時代の城郭を模して天守が復元されました。内部は長浜城歴史博物館となり、秀吉・一豊・石田三成・小堀遠州など湖北ゆかりの人物や長浜の歴史・文化を紹介しています。
長浜は古く今浜と呼ばれ、京極道誉が築城した。 天正元年、織田信長は浅井長政を滅ぼすと、浅井氏の旧領湖北12万石を羽柴秀吉に与えた。
秀吉は、交通の不便な小谷城を廃して、今浜城跡に新城を築き地名も今浜から長浜に改めた。
清洲会議の後、柴田勝豊、山内一豊が城主となった。 関ヶ原の役後に内藤信成が城主となるが、元和の一国一城令で廃城となり、内藤氏は摂津高槻に移った。
『城跡には、3層の模擬天守が建てられ、中は資料館となっている。 天守台は、模擬天守を建てるときに新たに築かれたものだが、本の丸(天守台西側)には、一部であるが築城当時の石垣が残っている。
太閤井と呼ばれる井戸が湖岸にあって、石碑が建てられているが、琵琶湖の水位が高いと湖面に石碑だけが顔をのぞかせている。
長浜城天守は、近くから見るのも良いが、竹生島めぐりの観光船に乗ると、琵琶湖に浮かぶようにその姿を見ることが出来る。 築城当時の長浜城の姿を、垣間見るような気分にさせてくれる。
今浜城の戦い
北近江の守護大名は京極氏で、戦国初期の段階では京極高清(たかきよ)が当主だっが、その跡継ぎを誰にするかで争いが起こった。
高清の子供のうち、弟の高慶(たかよし)が選ばれた。高清の意向と同時に、京極氏の重臣中の重臣であり、守護代をつとめていた上坂信光(こうさかのぶみつ)が高慶を推したからといわれている。
これに対し、上坂信光の専横的な行動を日頃から快からず思っていた部将たちは、高慶の兄高延(たかのぶ)への守護職継承を主張し、京極高清・上坂信光と敵対する行動に出たのである。
高延への相続を主張したのは浅見貞則をはじめ、浅井亮政・三田村忠政・堀元積・今井越前らで、京極氏譜代の家臣であり、国人領主として位置づけられ、「国人一揆」の名で呼ばれている。
彼等は浅見貞則の居城、尾上城に集結した。これに対し上坂信光は機先を制そうと、軍兵を率いて安養寺まで出陣した。
ところが、国人一揆の方が上坂軍に攻めかかり、上坂軍は今浜城に退いて、ここで合戦が繰り広げられたのである。
上坂信光は今浜城を支えることができず、高清の本拠である上平城に逃れ、さらにそこから尾張へ落ちて行った。
結局、国人一揆に擁立された高延が新守護になったのだが、今度は国人一揆の盟主だった浅見貞則に不満が集中。やがてその不満をたくみに利用した浅井亮政が貞則を倒す事に成功し、北近江一の実力者にのし上がって行ったのである。
浅井氏の台頭を物語る一戦であった。
その浅井攻めの功績により、浅井の旧領と小谷城を与えられた秀吉が今浜城跡に目を付け、ここに築城した秀吉の最初の居城、長浜城はあまりにも有名であり、そして皮肉な物である。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板
本日も訪問、ありがとうございました