栗原城
- お城のデータ
- 所在地:大津市(旧:滋賀郡志賀町)栗原 map:httpLW-2-://yahoo.jp/z
- 現 状:棚田
- 区 分:平城
- 築城期:
- 築城者:
- 遺 構:石垣(土止め)・基壇(棚田)・土塁(畔)
- 目標地:栗原集落の南の川添い
- 駐車場:栗原集落の南の川添いの東屋近く
- 訪城日:2016.4.20
- お城の概要
- 詳細不詳ながら、古道京道添いに位置する。
- 大津市栗原集落にあったとされる城。 詳細は一切不明。
- 志賀町の古道 京道(きょうみち)
- 北国海道は、その名の通り北国への道。古代・中世の北陸道(西近江路)を通る道を北国海道と呼ばれてきた。志賀町和邇今宿を過ぎて高城への道の常夜灯のそばにある道標などにも「北国海道」と刻まれている。
この道は、平安時代に入ると平安京と北国をつなぐ最短距離の道、京道として脚光を浴びるようになる。志賀町の山手を通る、この「京道」は志賀町史にも全く記述は無い。志賀町内の京道(北国海道支道)の存在を確認した。 調査を行った志賀町文化財専門委員(県文化財保護指導員)によると、この道は志賀町八屋戸から山手に向かい、湖西道路をくぐって岩神神社のホコラ近くから栗原の妙道会を通り、比叡霊園地を経て伊香立の龍華道へ抜ける。裏付け史料としては、栗原に伝わる民話「龍華夫人・八畳岩」や、比叡山天台密教の寺院由来歴などをあげ「いずれも、この道を通らなければ行けない場所にある」と検証している。
室町時代に建立された水分(みくまり)神社・底なしと言われたナリカマの穴・源為朝が京より逃れて馬を止め、一夜を過ごしたと言われる岩神神社志賀町栗原水分神社の小さな祠が残存する。(2001年1月号掲載) - 志賀町栗原水分(みくまり)神社
- 栗原地域の信仰の中核は氏神を守る祭祀組織としての宮座であり、これを今も伝えているのが志賀町栗原地域にある水分(みくまり)神社の祭祀組織である。
湖西道路の和邇インターチェンジを出て栗原地区に入ると、美しい棚田が目につく。この山間農業を守り続けてきた村の習慣が祭祀組織だった。栗原に生まれた男子は、その年の蔵じまいの日(12月10日ごろ)に烏帽子料を納めて氏子入り。その後、青年団入り、二人が一年務める小頭、60代で回ってくる宮世話、その後に一年納める神主役、そして神主を納めた長老から年齢順で構成する十人衆、最長老の一番尉という役が決まっていて、この人たちで宮守りを行う。
この東栗原集落にある水分神社は比良流水の守護神・天之水分神を祭神とし、ここで「ひおおぎ祭り」に始まり御田植祭(6月10日)、八朔祭り(9月1日)などのお祭りがある。
「ひおおぎ祭り」は、3月6日と7月6日に行われ、3月6日は田植えを前にして日を迎える祭事、7月6日は日を仰ぐ祭事といわれる。いずれも午前10時に宮守役が集まって作物などを献饌の後、裃姿の当家神主が神前に供えた桧扇を開き、東西南北に向かい「ひおおぎ」「ひおおぎ」「ひおおぎ」と三回唱えながら扇を上下し、日輪を仰ぐ。 農村が太陽を信仰する古典的な行事の一つともいわれている。(2000年2月号掲載)
- お城の歴史
- 詳細不詳、土豪のの城か?栗原集落は山間を切り開いた農村で、在地領主の居館であったと推測される
- ここに駐車
- 参考資料:滋賀県中世城郭分布1(1983.3)9(旧滋賀郡の城)、志賀町の古道 京道
- 本日の訪問ありがとうございす!!