城郭探訪

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西野城  近江国(高月)

2016年09月06日 | 居城

西野城 

所在地:長浜市(旧伊香郡:高月町西野  map:http://yahoo.jp/jYOBdZ
区 分:平城
現 状:宅地
築城期:南北朝期
築城者:西野丹波守
遺 構:
標高:100m  比高差:0m
目標地:西野集会所
駐車場:西野集会所に駐車
訪城日:2016.9.5
お城の概要
お城の歴史
『滋賀県中世城郭分布調査』の西野城の解説には、「西野丹波守の居館。佐々木氏・浅井氏に仕える。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、伊香郡 西野 住 佐佐木浅井隋兵 西野丹波守」の名を記す。

浅井三代記 第一

佐和山へ押よする事

かくて上坂治部大輔泰貞は同十日に屋形へ参扣して軍評議を申上けるに、高清入道打えみ給ひて首途の御祝儀として御秘蔵の御馬御重代の御腰の物を給はる。同十一日には治部大輔横山へ取のぼり味方の勢を揃見んとて同姓信濃守、同伊賀守、同掃部頭をめしぐして其日の辰の刻ばかりに打出給ふに内々江南勢にあなどられし事をいきどをりければ我も/\と馳あつまる。先一番に磯野伊予守員吉、同右衛門大夫員詮、子息源三郎為員、井の口宮内少輔(後弾正にあらたむ)、大野木土佐守秀国、三田村左衛門大夫定元、西野丹波守家澄、同與八郎氏常、安養寺河内守勝光、浅見対馬守俊孝、阿閉三河守貞義、堀能登守頼貞、野村伯耆守直定、同肥後守定元、今井肥前守頼弘、新庄駿河守信家、横山掃部頭家盛、同肥後守、千田伯耆守有義、子息帯刀、東野左馬助行成、熊谷弥次郎、同新次郎、伊部清兵衛尉為利、大橋善次郎秀元、浅井新次郎教政、野一色、片桐富田、尾山彦右衛門、田部助七、木村海北助左衛門、同善右衛門、雨森主計、同弥兵衛、赤尾與四郎、同筑後守、同孫三郎、宗徒の侍として四千余騎雑兵共に二万余とぞ申ける。かくて治部大輔御名代を仕るしるしとやおもひけん。物頭の方へ酒肴を出しければ上下さゝめき喜びける。斯て泰貞物頭共に向て申けるは、某屋形の御名代を申上ると云ども江北の諸侍などが下知にしたがひ給はんと思ひしに、如レ此残らず出馬せらるゝ事満足なりと悦びて、さあらば打立べしとて永正七年三月十六日に横山を立て、米原口へ押出す諸勢三手にわくる。堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守浦手へ向ふ。大野木、三田村、阿閉、西野は醒ケ井口へまはる。治部大輔は残る勢を召具し米原山に陣取る。斯て佐和山の城へ江北の軍勢残らず馳向ふよし、かねてより風聞すれば観音城へ注進す。観音城には定頼、義実打より物頭共よび集め軍評議をとげ給ふ。末座の若者共あなどり申けるは何そ評議し給ふ。物頭一人被2仰付1なば、我々罷越即時に敵を追払ふべしとて、手に取るやうにそひしめ、きける中にも進藤山城守(父山城守なり)、後藤但馬守進み出て申けるは、今度は御大事の戦ひなるべし。数年鳥井本口にをいて相戦へと佐和山へは敵に足をためさせざるに、今かくもよほして来たる事は無二の一戦とげんとの儀たるべし。屋形の御出馬尤たるべしと申ける。かくて寄手の勢は三方より押まはし、鬨を憧とあげ先遠取巻にぞしたりける。城中にはしつまつて防き、矢も射さりけれは、治部大輔此由を見て、使番を以て味方の軍勢率爾に責よすべからず。江南より多勢もよほし後巻有べきとおもふなり。様子を見て明日未明より責べきとて、其夜は軍をやめ陣取て太尾の要害こしらえける。

遺跡ウォーカーの比定地
日吉神社
湖東山正妙寺 千手観音
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『日本城郭大系』、『江州佐々木南北諸氏帳』『浅井三代記』
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