城郭探訪

yamaziro

肥田城 近江国(彦根)

2012年02月25日 | 平山城

 野良田合戦と肥田城・・・日本で初の水攻めされた城

 

探訪 野良田合戦と肥田城水攻め 20120225

講 座

  野良田合戦と肥田城水攻め~連続講座第5回に向けて

 肥田城遺跡は愛知郡を流れる宇曽川の自然堤防上にある城館遺跡です。大永年間(1521~28)の築城が伝えられています。地表面に現存する遺構はほとんどありませんが、田畑等の土地の地割り(土地の形)からかつての姿を検討することができます。このような土地に残る痕跡から推定できる肥田城は、宇曽川のほとりに築かれた土塁・堀で囲まれた城館で、おそらく、周辺に築かれた城館遺跡同様の姿であった考えられます。

 肥田城は日本で初めて「水攻め」が行われた城とされています。土地に残る痕跡からは城郭自体の形状だけでなく、水攻めのために築かれた堤の跡も推定することができます。土塁の推定位置から考えると、水攻めは宇曽川・愛知川およびその周囲の小河川の水を引き込んで行われ、肥田城だけでなく、城館の周囲に形成された集落も巻き込まれてしまったものと思われます。

 水攻めを行ったのは代々近江守護として室町幕府から任じられた六角氏です。肥田城の城主、高野瀬氏が六角氏を見限り、浅井氏の勢力下へ鞍替えしたことが戦いの発端となりました。永禄2年(1559)、河川の流水を堰き止め、土塁内に水を引き込んで行われた肥田城の封鎖は、堤が増水に耐えられず決壊して失敗しました。翌永禄3年(1560)に再度六角氏は高野瀬氏を攻めるため肥田城を包囲しますが、今度は浅井賢政(後の長政)が高野瀬氏救援のため出陣し、肥田城西方の野良田付近で両者は戦うことになりました。

 なぜ、肥田城を巡って六角氏と浅井氏は戦うことになったのでしょうか。六角氏は守護大名から戦国大名への道を歩みました。その勢力の基盤は近江守護職を務める中でつながりを持った国人(地元に所在して土地を治めた武士)達でありました。一方、浅井氏は京極氏配下の国人から戦国大名へと歩みました。その勢力は周囲の国人達も取り込んで拡大していき、拡大の矛先は六角氏の勢力下にあった犬上郡以南への地域へも向けていきます。浅井氏にとっても国人達が勢力の基盤となっています。国人達の側から見ると、大名は自身の領地の保有を保証してくれる者です。戦乱の時代の中
で国人達は所領を確実に保証してくれる大名の勢力下へ入ることが、生き抜くための術であったのです。自らの身・所領を守るためには身を寄せる大名を見限り、別の大名へ鞍替えすることも辞さなかったのです。ただ、大名にとって国人の離反は勢力衰退につながるため避けなければなりません。そのため、国人の大名に反する動きには厳しい対処をとる必要も出てきます。また、勢力下の国人が危機に見舞われた際には大名は救いの手を差し伸べることもしなくてはならないのです。「武篇の者」と称された戦国大名達はその武力をもって事に対処していきます。
そのため、肥田城を巡って六角、浅井両氏は矛を交えることになったのです。

 「野良田表の戦い」は当初兵力に勝る六角氏が優勢に進めましたが、最後は寡勢ながらも奮戦した浅井氏が勝利しました。この勝利によって浅井氏は犬上・愛知郡を手に入れ戦国大名として自立していきました。破れた六角氏は勢力範囲を失い、永禄6年(1563)に観音寺騒動が起きるなど衰退への道を歩むことになったのです。  (上垣)

肥田城見学へ

お城のデータ

所在地::彦根市稲枝町肥田  map:

現 状:畑地・集落

遺 構:石碑・曲輪・土塁・堀・石碑

区 分:平城

築城期:大永年中(1520年前後)

築城者:六角氏

城 主:高野瀬備中守隆重・蜂屋頼隆・長谷川秀一

廃 城:慶長年間(1596~1615)以後

城 域:100m×100m

戦 い:永禄3年(1560)   △浅井長政,高野瀬秀澄 VS  △六角義賢

目標地:聖泉大学

駐車場: 聖泉大学・周辺に駐車

訪城日:2012.2.25

お城の概要

 肥田城跡を示す石碑が肥田公民館前に建てられているが、元々この石碑は公民館の北方にあったものを移されたものである。

 肥田城址の位置ははっきりとはしないが、公民館から北西約200mの山王祠辺りから木簡と古銭が出土したこと、および山王祠周辺に丹波屋敷,民部屋敷,藤蔵屋敷、および勘解由屋敷といった小字名が残っていることから、山王祠辺りが肥田城の本丸(主曲輪)だといわれている。しかし2008年には山王祠も消失し、圃場整備が進められている。

 公民館の南西約200mには、高さ1~1.5mほどの土塁と堀跡が約300mほどにわたって残されており、この土塁は家臣屋敷だけではなく町屋も取り込む形で築かれており、肥田城は惣構えの城であったことが窺える。

 公民館に隣接する崇徳寺は肥田城主の菩提寺でもあり、肥田城を築いた高野瀬氏累代の墓、および蜂屋頼隆、長谷川秀一の墓がある。
また、歴代の肥田城主・高野瀬隆重,高野瀬秀隆,蜂屋頼隆、および長谷川秀一の肖像画、と位牌がある。

 崇徳寺は臨済宗建仁寺派で山号を大智山といい、寺伝によれば高野瀬隆重によって建立されたという。
崇徳寺には、室町幕府第2代将軍足利義詮、第12代将軍足利義晴から崇徳寺に宛てた手紙や六角氏が発給した禁制などが保管されている。
 なお、崇徳寺や公民館には肥田城の再現図がある。

肥田城は、小字「山王」・「月山」を中心としてその周辺に城が広がっていたと考えられています。

その周囲には「門前」「新助屋敷」「小座敷」「丹波屋敷」「藤蔵屋敷」「勘ヶ由屋敷」「道場屋敷」といった城郭関連と思われる地名が存在し、城を中心として家臣たちの屋敷が広がっていた様子がうかがえます。

現在これらの地域は田地となって城の痕跡は見られませんが、これらの東側には「西町」「東町」、南には「登町」という地名があり、町場があったと考えられます。町場は、現在住宅地となっており、堀の痕跡と思われる溝が残されています。

水攻めの土塁については、聖泉大学の敷地と宇曽川との間にその痕跡が見られるほか、野良田町の東に広がる田地の畔のラインとして残っています。

 肥田城遺跡では過去数度の発掘が行われ、肥田城跡に関する遺構・遺物が発見されています。それによると肥田城は大きく三時期に分かれていること、宗教関連遺物が見つかっており、「山王」という地名からも宗教関連施設が城内にあったと考えられることなどが分かりました。(松下)

歴 史

肥田城は愛智氏の支流である高野瀬隆重によって、 宇曽川の左岸に築城された。

永禄2年(1559)江北・浅井氏と江南・六角氏の国境に領地をもつ肥田城主・高野瀬秀隆は小谷城の浅井賢政(後の長政)と通じた。当時の浅井氏は、六角氏属国からの独立を模索していた。

 肥田城が浅井氏の支配下になると、観音寺城の六角義賢(後の六角承禎)は軍を起こし、宇曽川を堰き止め肥田城を水攻めにしたが、折りからの大雨で堤防が決壊し水攻めは失敗に終わった。

 翌永禄3年(1560)六角氏と浅井氏は肥田城の西、野良田で相まみえたが、寡兵の浅井氏の勝利するところとなり、この時から浅井氏は娶っていた六角氏の家臣・平井氏の女を追い返すとともに、賢政改め長政と名乗り戦国大名への道を歩み始めた。

 永禄11年(1568)近江に進攻した織田信長は、元亀元年(1570)に野洲川の下流の落窪で六角氏に勝利し、天正2年(1574)に江南から六角氏を追放した後、肥田城には蜂屋頼隆を入れた。

 その後、城主は長谷川秀一に替わったが、秀一は文禄の役に従い朝鮮で病死したため、肥田城は慶長年間(1596~1615)以後廃城となった。

  肥田城は近江守護六角氏の被官高野瀬氏の居城として大永年間(1521~1528)、宇曽川南岸の河岸段丘上に築かれました。肥田城の位置する犬上郡は愛知郡とともに北近江に勢力を持つ京極氏(後に浅井氏)と南近江に勢力を持つ六角氏との境界として、両者の勢力争いが繰り広げられた所です。

 永禄2年(1559)、高野瀬氏が浅井氏側に寝返ったため、六角義賢が肥田城を攻撃します。この時六角義賢は、肥田城の周囲に長大な土塁を築き、宇曽川の水を引き入れて水攻めにしました。しかし増水のため土塁が決壊し、水攻めは失敗に終わります。

 翌永禄3年(1560)、ふたたび肥田城を攻撃しようと出陣しますが、肥田城の西、野良田(現彦根市野良田町)において劣勢の浅井長政軍に完敗を喫します。

この野良田の戦いは浅井氏が北近江を基盤とする戦国武将として自立する契機となった戦いといわれており、一方六角氏にとっても永禄6年(1563)の観音寺騒動にいたる権力の衰退の始まりとして重要な戦いです。

  その後肥田城は織田信長、羽柴秀吉のもとで湖東地域の拠点城郭の一つとして、高野瀬氏の後蜂屋頼隆、長谷川秀一が城主となりました。しかし徳川時代には城は無くなっており、おそらく秀吉時代の末期に廃城となったものと思われます。

 

  

   ・・・(サービス参加者のマドンナ)

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、わたしの町の戦国(彦根教育委員会)

            本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


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