お城のデータ
所在地:東近江市(旧・神崎郡)永源寺山上町 map:http://yahoo.jp/CEbqQE
現 状:森林
区 分:山城
築城年 :南北朝期
築城者:小倉右京亮実房
城 主:小倉右京亮実房
遺 構:低土塁・基壇・自然の地形を利用した堀・区割
城 域:200m×100m
標 高:270m 永源寺そば、から比高差50m
目標地:東近江市永源寺支所・永源寺そば(滋賀県東近江市山上町123)
駐車場:路上駐車
訪城日:2105.11.14
お城の概要
小倉氏が伊勢へ抜ける間道の天険を有するこの地域に、応仁の乱の頃より山上城を主力に出城として山田城、八尾城等を構えていた。
小倉氏は、承暦年間(1077~80)に清和源氏満季流の小倉景実が小椋庄の愛知川を望む天然の要害に築いた小倉城を本拠として、以後、愛知、神崎、蒲生三郡の東部に勢力を伸長し、隣強の佐々木六角、蒲生の両氏と雄を競った一族である。
しかし、室町中期には三・四家に分流し、本家が蒲生郡佐久良庄に移り
小倉西家が神埼郡御園庄を支配し、山上城を本拠に和南城、山田城、相谷城、九居瀬城、八尾城等の支城を設け一族を配した。
愛知川本流と東側は渋川(藤切川)に接し西側と南側は最高270mの累々たる山岳ひ連なる天然の要害地に営まれた八尾城は、本城の『山上城の奥の支城』として、構築された。中世数百年の歴史の中で、大々的に戦闘が行われた史実は無く反永久的に城砦の遺構が残る。
歴 史
山田城主・小倉右京秀の詰城として築城。
永禄年間(1558~69)に至ると小倉氏一族の間に内訌が起こり、山上の小倉西家は独立志向が強く、用水の権利などをめぐって小倉宗家と対立、時折小規模な武力衝突を繰り返していたが、
永禄6年(1563)には永源寺が蒲生の軍勢に力を貸したとして、西家の小倉右京太夫が同寺を攻撃し、翌7年3月23日堂塔が悉く焼き払われるなど緊張状態が続いた。
和南の合戦
また、同年 右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領したとして、怒った六角義治は佐久良城主である宗家の実隆に右京大夫の討伐を命じた。 実隆は、直ちに速水氏・寺倉氏など蒲生郡の諸氏を従えて討伐に出るが、これに対し右京大夫は山田城・和南城・八尾城・相谷城ら支城の西家一門に応援を要請し、戦闘域は山上だけに留まらず宗家と西家全体の戦に発展した。宗家の実隆側は速水勘六左衛門尉が和南城主の小倉源兵衛を討つなどしたが、後に実隆自身が西家側の兵に討たれてしまい、宗家方が敗北してしまった。 勢いづいた右京大夫は、奥津保(愛知郡、蒲生郡)の辺りを制圧し勢力を拡大するが、この事態に実隆の実家である蒲生(定秀)氏が介入し、兵を率いて西家の所領へ攻め入り、右京大夫らの西家を討伐した。 佐々木六角義賢・義弼親子によって攻められ、八尾城で小倉右京秀切腹。これにより内訌の沈静化には成功したものの小倉氏の力は大幅に衰退し、以後の小倉氏は蒲生氏の麾下のような存在になっていった。小倉実房の妻・鍋と子の小倉甚五郎・小倉松寿は、尾張に落ち延びました。
その後、鍋は織田信長の側室となり、子は織田信長の家臣となりました。小倉甚五郎のその後はよくわかりませんが・・・
松寿は本能寺の変の際に京におり、変を聞きつけて本能寺へ向かいました。そこで明智軍と戦って討死しました。
- 永禄元年(1558)織田信長の八風峠越えの道先案内が縁で手を組む、これより佐々木六角との関係を断つ。
- 永禄2年(1559)の信長上洛の帰路では美濃衆の襲撃を回避する為に、小倉領から鈴鹿山脈を越えて伊勢へと抜ける八風峠越えを行ったが、実房その際に織田軍の水先案内を務めた。
- 永禄3年(1560)六角のゆかりの寺院永源寺に放火
- 永禄4年(1561)永安寺・興源寺・退蔵寺他永源寺はの寺院に放火
- 永禄13年(1570)に起きた金ヶ崎の戦いでも千種越えに協力して織田軍の岐阜城帰還を助けたが、これが承禎の怒りを買い攻め滅ぼされた。
八尾城への林道
→星野溜
八尾城(遠景)・・・愛郷の森の道より
神埼郡御園庄を支配した小倉西家は山上城を本拠とした。小倉西家の小倉右近太夫、山田城主・小倉三河守良秀が支城として築いたのが相谷万灯山城。小倉右近太夫らが築いた支城には、和南城、山田城、相谷城、九居瀬城、八尾城等がある。
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『神崎郡志』・『安土城郭研究所』・『永源寺町史』・『近江小倉城』
本日の訪問、ありがとうございました!!感謝