城郭探訪

yamaziro

信長公記 巻六

2013年03月04日 | 番外編

元亀四年

1、弾正遊泳  松永多聞城渡し進上

 去年冬①、松永久通は反逆の罪を赦免され多聞山の城を明け渡した?城には定番として山岡対馬守景佐が入れ置かれた?そしてこの年の正月8日、その父の松永久秀が濃州岐阜へ下り、天下無双の名物不動国行の刀を献じて宥免の礼を述べた?久秀は以前にも世に名高い薬研藤四郎吉光を進上していた?

 ①この年冬の誤りで、久秀の岐阜行きも翌年正月のこと

 

2、異見十七ヶ条  公方様御謀叛

 公方様が内々に信長公へ対し謀叛を企てていることは、この頃すでに明白となっていた?そのことは先年信長公が公方様の非分の行いを諌めるべく建言した十七ヶ条の異見書を、公方様が不承諾とした一事により明らかとなった?

 その十七ヶ条とは以下の通りであった?

一、光源院義輝殿は禁中へ参内することが少なく、ために御不運な次第と相成ってしまった?信長はそのことを考え、御当代には懈怠なく参内なされるよう以前より申し上げてきたが、公方様にはそのことをお忘れになり御退転なされてしまっている。まったく残念なことである?

一、諸国へ御内書を遣わして馬その他を所望なされているが、その外聞がいかがなものかをよく考えていただきたい?それに、何か仰せ遣わされる事があって御内書を発給する際には必ず信長の添状も一緒に添える旨をかねてから申し上げ、公方様もそれを承諾したはずであったのに、今はそれをすることなく遠国へ御内書を下して御用を申し付けられている?これは以前の約束に違背している?良き馬のことなど御耳にされた時は、たとえ何処にいようとも信長が馳走して必ず進上して差し上げるのに、そうはせず直に仰せ遣わされている?よろしくないことである。

一、よく奉公して忠節疎略なき者達には相応の恩賞を宛行わず、新参のさしたる事もなき者達には御扶持を加えられている?そのようなことでは忠不忠の別も無くなってしまうし、諸人の評価もよろしくない。

一、このたび公方様が雑説に惑わされて御物を避難させたことは都の人士の広く知るところとなり、それによって京都は騒然となってしまった?御所の普請に苦労を重ねてやっと御安座がなったというのに、またも御物を退かせて何方かへと御座を移そうとなされる?無念なことである?これでは信長の辛苦も徒労に終わってしまう?

一、賀茂の神領を岩成友通へ与え、表向きは土地の百姓前を固く糾弾するよう申し付けておきながら、内々では打ち捨てになされている。このような寺社領没収はいかがなものかとも思う。しかし岩成も困窮して難儀していたので、公方様が岩成の申立てを容れて他の訴えには御耳を休めていれば、他日岩成を何かの用に役立てることも出来ようと考えて容認していた?しかし御内心がそのようなことであれば、もはやそれも叶わない?

一、信長に近しい者達に対しては女房衆以下にいたるまで辛く当たり、迷惑させていると聞いている?われらに疎略なき者達と聞けば、公方様にはひとしお御目をかけられて然るべきであるのに、あべこべに疎略に扱われる?これはどうしたことか。

一、よく奉公して何の科もなき者達に御扶持を加えられないため、困窮した者達は信長を頼ってきてはわが身を嘆いている?信長から言上すれば何かしら御憐もあろうと考えてのことであるから、不憫のため、かつは公儀のおんためと思い御扶持の儀を申し上げたが、ただの一人とて御許容なされることがなかった?世にも吝嗇なる御諚であり、面目なき次第と考えている?これは観世与左衛門?古田可兵衛?上野紀伊守らの事である?

一、若狭国安賀庄の代官の件につき粟屋孫八郎から訴訟があったが、取り扱いを忌避して再三にわたり申立てがあっても無視し続けてこられた?

一、小泉女房が預け置いていた雑物や質物として置いていた腰刀?脇差までも召し置かれてしまったと聞いている?小泉が何か謀叛でも企てて曲事をしでかしたというのなら、たとえ根を絶ち葉を枯らしても道理であるが、小泉は単に計らざる喧嘩をしたにすぎない。法に従うのはもっともであるが、これほどまで厳しく仰せ付けられては世間に公方様は欲得により処断をなされたと思われてしまう?

一、元亀の年号は不吉につき改元すべきとの旨を以前より申し上げてきた?禁中からもその勅命があったが、そのために必要な少しばかりの費用を公儀が捻出しないため、今も遅々としている?改元は天下の御為であるから、御油断があってはよろしくなかろう?

一、烏丸光康を勘当し、子息光宣に対しても同様に御憤りになっておられたところ、誰であろうか内々の使いを立てて金子を上納させ、それで赦免なされてしまった?嘆かわしいことである?人により罪によっては過怠金を仰せ付けられるのも道理であるが、烏丸は堂上の仁である?当節公家にはこの仁のような人が多いのだから、それに対しこのような仕置きをなされては、他への聞こえもよろしくない。

一、他国より御礼があって金銀を進上してきたのを隠匿し、御用にも立てようとしない?一体何の御為か?

一、明智光秀が町から徴収した地子銭を買物の代金として渡したところ、公方様は明智が山門領の町から銭を徴収したといって受取主を差し押さえてしまった?

一、昨年夏幕府の御城米を売却して金銀に換えてしまわれたが、公方様が商売をなされるなど古今に聞いたことがない?当節は倉に兵糧が満ちあふれている状態こそ外聞もよいというのに、そのような次第となったことを知り驚き入っている?

一、御宿直に召し寄せておられる若衆に扶持を加えたいと思われたなら、当座当座で与えてやるものは何なりとあるのに、あるいは代官職を仰付け、あるいは非分の公事を起こさせる。これでは天下の非難を浴びることは避けられない?

一、諸侯は武具?兵糧のほかに嗜みはなく、もっぱら金銀の蓄えに励んでいる?これは浪人した時の備えのためである?上様も以前より金銀を蓄えておられたが、先日洛中に雑説が立った際にそれらを持って御所を出てしまわれたため、下々の者は公方様が京を捨てて浪々するものと誤解してしまった?上たるもの、行いを慎んでいただきたい。

一、諸事につき御欲が深くあらせられる?理非も外聞も気にかけられぬ公方様と世間に伝わっている。ために何も知らぬ土民百姓までが悪御所と呼んでいるとのことである?普光院義教殿がそのように呼ばれたと伝えられているが、それならば格別な事である?何故そのような陰口を言われるのかをよく考え、御分別を働かせていただきたい?

 以上の旨を異見したところ、金言耳に逆らったのであった?遠州表で武田信玄と対峙し、江州表では浅井下野守久政?長政父子および越前朝倉氏の大軍と取り合い、虎御前山の塞も守備半ばで方々手塞がりの状態となっている信長公の様子を、下々の者が御耳に入れたためでもあったろうか?

 信長公は年来の忠節がむなしく潰えて都鄙の嘲弄を浴びることを無念に思い、日乗上人?島田秀満?村井貞勝の三使を公方様のもとへ遣わした。そして要求のごとくに人質?誓紙を差し出して等閑なきようにする旨、種々様々に申し述べたが、ついに和談はならなかった。

 公方様は和談の交渉に対するに、兵をもって報いた?近江堅田の山岡光浄院景友?磯貝新右衛門と渡辺党へ内々に命を下し、かれらに兵を挙げさせたのである?かれらは今堅田に人数を入れ、一向一揆と結んで石山に足懸かりの砦を築いた?これに対し、信長公はすぐさま柴田勝家?明智光秀?丹羽長秀?蜂屋頼隆の四人を鎮圧に向かわせた?

3、火の手上がる  石山?今堅田攻められ候事

 軍勢は2月20日に出立し、24日には瀬田を渡って石山の砦へ取りかかった?砦には山岡光浄院が伊賀?甲賀の衆を率いて在城していたが、砦が普請半ばで守りがたく、26日には降伏して石山を退散した?砦は即刻破却された?

 今堅田の攻略は29日朝から開始された?東の湖上からは明智光秀が軍船をそろえて城西方へ攻め寄せ、陸からは丹羽長秀?蜂屋頼隆の両名が城南を攻め立てた?そして午刻頃に明智勢が攻め口を破って城内へ押し入り、敵兵数多を斬り捨てて砦は落ちた?これによって志賀郡の過半は相鎮まり、明智光秀が坂本に入城した?柴田?蜂屋?丹羽の三将は岐阜へ帰陣した?

 この挙兵によって公方様は、信長公への敵対の色を天下に示した?それをみた京童は、「かぞいろとやしない立てし甲斐もなくいたくも花を雨のうつを」①と落書して洛中に立てまわった?

 3月25日、信長公は入洛のため岐阜を発った?そこへ29日になって細川藤孝?荒木信濃守村重の両名が、信長公への忠節の証として逢坂まで軍勢を迎えに出てきた?信長公は上機嫌でこれを迎え、同日東山の智恩院に着陣した?旗下の諸勢は白川?粟田口?祇園?清水?六波羅?鳥羽?竹田など②にそれぞれ宿営した?信長公はここで荒木村重に郷義弘の刀を与え、細川藤孝にも名物の脇差を与えた?

 4月3日、信長公は堂塔寺庵を除く洛外の地に火を放ち、公方様へ和平をせまった?信長公は事ここに至っても公方様の提示する条件通りに和談を結ぶ旨を述べて交渉したが、ついに許容されることはなかった?

 ①「かぞいろ(父母)と思って養い立てた甲斐もなく、花(花の御所=将軍)を雨が打つ」 ②現京都市左京区?東山区?伏見区。京都東郊~南郊

4、心胆錯綜  公方様御構取巻きの上にて御和談の事

 翌日織田勢は御所の公方様を押さえつつ、上京へ火を放った?ここに至って公方様はついに抵抗を断念し、和睦を承諾した①?信長公もこれに同意し、4月6日名代として織田信広殿を公方様のもとへ参上させ、和談成立の御礼を申し述べさせた?

 事態が一時の鎮静をみたため、4月7日信長公は京を発って帰陣の途についた?その日は守山に宿営した?

 ①朝廷が間に立って和睦を調停した。

5、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺①に入り、ここに2?3日滞在した?近在の鯰江城②に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである?信長公は佐久間信盛?蒲生賢秀?丹羽長秀?柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた?

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた?それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった?焼け跡は目も当てられない有様であった?

 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 公方様が憤りを静めるはずはなく、いずれ再び天下に敵するであろうことは疑いなかった?そして、その際には織田勢の足を止めるため湖境の瀬田付近を封鎖してくるに違いなかった?信長公はその時に備え、大船を建造して五千?三千の兵でも一挙に湖上を移動できるようにしておくよう命じた?

 ①②前出。ともに現滋賀県愛東村

 転載 http://qz.qq.com/627782968/blog?uin=627782968&vin=0&blogid=23


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