城郭探訪

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西正福寺城   近江国(甲西)

2013年06月11日 | 平山城

 

所在地:湖南市正福寺  map:http://yahoo.jp/jFCTHl  
    旧:甲賀郡甲西町正福寺

目標地点:正福寺(大日寺)

区 分:平山城

比高:30m

現況:山林・寺跡

遺構等:土塁・堀・関連説明板

築城期:室町期

築城者:青木氏

所要時間:正福寺から10分

訪城日:2013.6.11 

主郭?

正福寺城は正福寺(大日寺)の西側に位置し、清寿寺跡の南西一帯である。
幾つかの削平地がある中で、中心部に南北約 35m、東西約40mの主曲輪がある。主曲輪の北~東~西には土塁を巡らし、中でも東側の土塁は高さ6~7mにもおよび圧巻である。また周囲には幅 7~8mの横堀を配している。

 主曲輪の北,南、および西側に虎口を設けている。南側虎口は平虎口であるが、北及び西側の虎口は"折れ"を入れた構造となっているのは注目される。特に北側虎口は横堀に掛けた土橋を経て虎口を設けており、技術的にも注目される。
 なお、正福寺(大日寺)の東側には東正福寺城が築かれている。

虎口

「正福寺(大日寺)」の西側、寺より小道が続き、途中左手の斜面の下に土塁に囲まれた区域があり、さらに西側は墓地と清寿寺跡五輪塔のところまでが城域のようです。墓地の東側(正福寺の西側)周辺にはコの字に土塁が巡り、虎口横には堀も確認できます。さらに南側にも郭(一部石積みの痕跡も感じられます。)があり、ここにも東側に平虎口があります。しかしながら、ここは寺の山門跡と言われても納得しそうな感じです。

歴 史
青木氏の城と伝えられますが、清寿寺関連遺跡とも考えられます。

奈良時代、聖武天皇の勅願により良弁が開山したと伝えられる浄土宗寺院。平安期にかけて隆盛を誇っていたが、2度の火災があったが、木造大日如来坐像、木造十一面観音立像仏像は残った。木造地増菩薩半跏像などの貴重な文化遺産は難を逃れた。 5月下旬から6月上旬には、境内に並ぶ石仏を取り巻くサツキの花群の風景に出会います。

大乗山正福寺と称し、今を去ること1250年、聖武天皇の勅願所として、良弁大僧正の開基である。
本尊胎蔵界大日如来は、金粛大菩薩一刀三礼の彫刻になる秘仏であり、当時は七堂伽藍を完備して、僧坊18、公衆12人を属し、官符を賜わりし後、弘仁8年檀林皇后の綸命により、願安大師貞観10年伽藍を再建されたのである。

聖武帝以来800有余年の間歴代の勅願所国家鎮護法灯の道場として、永く寺門の隆盛を極めたが、惜しい哉、元亀年間織田信長の兵火に遭い一山諸堂僧坊ことごとく焼失

しかし本尊大日如来、薬師如来、十一面観世音菩薩、子安地蔵菩薩(いづれも国指定重要文化財)は火難をさけ、一草庵に安置して素朴な村人の信仰をあつめ其の後、明暦年間ときの住僧寂誉上人により浄土宗に転宗されたのである。
降って正徳3年4月霊誉上人により堂宇を再興されて以来、念仏の道場として教化四方に遍く繁栄を見たものの、不幸にも亦々宝暦6年3月16日の夜半、本堂、山門、鐘楼、悉く焼失したので、翌年には、無徳上人願主となり諸堂の復興に着手され、浄財勘募に日夜御苦労の甲斐あって、宝暦12年、本堂山門、鐘楼を最後としてようやく完成を見ることが出来た。

爾来、230年、時代の変遷と共に、栄枯盛衰は世の常と言うものの寺運衰微して、無檀、無縁の荒廃した寺となり、一時は住職もなく、兼務寺院となったこともあり其の当時の模様を、゛寒沈人なく黄鳥しきりにさへづる法華経”と、荒廃した山寺の実状を詠じたものらしい。

 真明寺を貞享のころ再興したのは四世俊応であるが、この僧は正福寺村(甲西町)の青木庄助の子であるが、正福寺にもまた青木氏がいた。『寛政重修諸家譜』(巻665)には「先祖近江国甲賀郡正福寺の人にして、もとは上山を称す。美作守家がとき、同国青木の庄に住せしより称号とす」とあり、安の項の下に「近江国正福寺の城に住し、佐々木承禎が旗下なり。そのゝち織田右京(信長)に属し、右府生害のゝち青木左京進某に焼討せられ、つゐに所領を奪わる(下略)」と註記されている。

 正福寺の青木氏も佐々木の幕下であった。菩提寺城、丸岡城(甲西町柑子袋)をまもっていたのも青木氏であった。このように青木氏は六角配下の土豪として当地方に勢力をもち、甲賀口を扼していたが、佐久間信盛らの来攻によって、菩提寺の青木氏、石部平野の青木氏も居城を捨て敗走したのである。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査報告 、淡海の城、

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