現在、石部城址建つ善隆寺
お城のデータ
所在地:湖南市石部中央2丁目 旧:甲賀郡石部町石部 map:http://yahoo.jp/kDudRX
目 標:善隆寺(JR石部駅すぐ)
区 分:丘城
遺 構:空堀、石垣、土塁痕、切岸
築城期:室町期
築城者:三雲氏・石部氏
城 主:青木秀正・石部家長(父子)
訪城日:2013.6.10
お城の概要
現在、石部城址には石部氏の菩提寺である善隆寺が建てられており、善隆寺墓地奥の竹藪に、空堀の一部と思われる遺構が残る。
また、日本城郭大系には石垣が残るとあるが、善隆寺の建つ石垣のことか?
の境に・・・以前は竹藪か?)切岸か?(甲賀の城の定説からは主郭を取巻く土塁遺構か!!?)
境内の裏手の伐採された竹藪・・・・やがて墓地に?
北側・・・野洲川方面は、切岸か?
歴 史
『佐々木南北諸士帳』には、石部城主 箕作義賢(承禎)内貴三郎左衛門 同 上 内貴伊賀守
とみえ、六角義賢(承禎)に仕えていたことがうかがい知られるのである。甲賀五十三家交名中に記された内貴伊賀守の名前から擁して、同家が佐々木伊賀守を名乗っていたことも考えられよう。
石部家清 青木一族である石部氏が、石部城を本拠として活躍したことは、すでに述べたとところである。特に石部家清の行動には、目をみはるものがあったが、早や戦国の世も終わりを告げ、豊臣秀吉の治世となった慶長三年(1598)の冬、家清は菩提寺である善隆寺に法名軸(六字名号)を納めた。この中では同族はもとより、それ以外の者たちの冥福をも祈念しており、家清晩年の心情をくみとることができるのである。
承貞様 慶長三年戍戉三月廿日
一念のこころハ西へうつせみの、もぬけはてたる身こそやすけれ 慶長三年十一月十五日如此はんへる 平家清 弘法大師御筆六字名号、奉寄進善隆寺一宇、兼又、毎月廿四日此名号可有御掛事、 右、精誠旨趣者、奉為大納言定秀大徳公出離生死頓証菩提也、 但、雖為少分霊供米毎月廿四日毎八木三号宛、我等存生之間、送可申也、并茶湯被備可預御回向候、然者自餘以後、 御院主相替候共、於此名号者、無相違可為御附属候、別者御壇主え此旨被仰聞候事、肝心也矣、永宗禅定門正月十七日 妙真禅定尼天文辰年八月十八日 清林大姉慶長三戍戉三月廿日 石部右馬允逆修善現禅定門正月十七日 宗永禅定尼十一月十一日 秀法師十四日 高野瀬備前守殿六月四日妙隆禅定尼九日 一身禅定門三月廿一日 孫太郎清昌正月十五日 同七郎左衛門殿九月九日道光禅定門天文午年四月廿九日 祐春禅定尼天文午八月廿六日 尼子宮内少輔宗澄七月廿六日宗法童子五月廿六日 三雲津守殿六月四日妙貞禅定尼慶長二(三)年戍戉六月廿日 山中岡本次郎左衛門殿天文十六年二月一日 美濃部将監殿天文十六年二月一日 新左衛門九月九日 中西七郎衛門尉殿十一月廿四日 西寺行徳法師十一月廿四日有縁無縁法界 妙勤禅尼西寺賀々 含識普利 慶長三年戍戉十一日廿六日 寄進施主 石部右馬允平家清(花押)
甲賀五十三家・石部氏(青木氏)の居城。
文明年間に三雲氏が築城したことが始まりとされ、享禄年間に石部氏が入城。
1487年の長享・延徳の乱(いわゆる鈎の陣)では、六角高頼が室町幕府軍との戦闘における拠点とした。
1568年、織田信長に観音寺城を追われた六角承禎・義治親子が籠城。
信長包囲網の一角として抵抗を続けるも、1574年に佐久間信盛に攻められ落城した。
境内の南側に土塁の痕跡(墓地 石部城の攻防 将軍足利義昭が追放され、さらに江北の浅井氏、越前の朝倉氏が滅ぶと、いよいよ信長の六角征伐は本格的になってきたのであった。
一方、たび重なる六角氏のゲリラ戦法は。次第とその戦力が低下し、先述のように、元亀元年の野洲川合戦や天正二年の石部城籠城戦が、六角氏の戦国武将としての意地をみせる最後の戦闘となったのであった。なかでも石部城をめぐる攻防戦は、六角軍の最後の力量をみるにふさわしい合戦となった模様である。
石部城は、甲賀武士青木石部氏の拠城で(後述)、この城を六月承禎は本拠地とし、信長の武将佐久間信盛を迎え討つことになったのである。『山中文書』年末詳十二月二十四日付「六角承禎書状」(『甲賀郡志』下巻)をみるとその戦いぶりを知ることができる。
「先年、江州石部館へ出張せしめ、(織田)信長に対し確執に及ぶ、越前朝倉・江北浅井没落の後、佐久間父子(信盛・信栄)大軍を帥い、石部館を攻む、菩提寺城を抜き、石部において堅固に相构め畢んぬ、其方儀、軍忠を抽んで、取林寺熊之助の首を撃ち、その時他に異なる感状を与う、九月朔日より翌年四月十三日に達し籠城す、寄手柵十一ヶ所の附城、(山中)長俊等柵を破り、忍び出て敵を討つこと四度なり、退城の時、供奉して信楽に至る、敵これを躡うと雖も、追い払い事故なく信楽に着く、右の赴(趣)、今に至りて失念す、今我齢八十一に及ぶ、残命久しうべからず、且床に臥す、然れども当来後世の契約を成す故、改めてこれを書く、判形を加え筆跡其甚し、高定これを認むるの条、細に能わず候、恐々謹言」
極月に廿四日 (六角)承 禎 (花押)
山中山城守殿 参
菩提寺城を攻略し、石部城を包囲した佐久間軍は、封柵で城内を拘禁し、六角軍殲滅を計った。ところが、城内では山中長俊や石部家清など六角氏とともに闘い抜いてきた甲賀武士たちが、十一ヶ所の封柵を破って敵陣に反撃を加えたりした。六角軍がゲリラ戦術で、敵を威嚇したのであった。しかし、ついに籠城をあきらめ、信楽に脱出するに至った。六角軍の敗退であった。
なお、ここにこの合戦時にだされたと思われる信長軍の一通の黒印状がある。(『山中文書』年末詳三月五日付)。大変興味深い内容を持つものである。
書中に三色見来候、祝着せし候、毎々懇切浅からず候、仍て甲賀郡内の者共の礼、其意を得候、石部表の執出(砦)の儀に付、各精を入れ候段、弥由(油)断なく候て、落居たるべく候の条、堅く申し付くべく候、猶、來問を期し候、謹言、
三月五日 信 長 (黒印)
佐久間甚九郎殿
内容からみて、石部城が佐久間軍に攻められ、承禎が信楽に逃避した天正二年四月の直前に発給されたものと思われる。六角氏の滅亡寸前に、信長は甲賀武士たちが自軍になびきつつあることを意識して、佐久間信栄に油断なきよう差配することを命じているのである。はたして承禎に付き従った甲賀武士がいか程いたかは不明であるが、少なくともこの文章から知られることは、甲賀郡内の地侍たちが信長に帰順していることである。この合戦において信長は、ほぼ終焉を迎えたといってよかったのである。
六角義賢が野洲河原の大敗したのちの石部郷(城)は、元亀二年に織田信長の家臣で、永原城主の佐久間信盛の領有となって、寺西治兵衛の地行所となった(『石部町史』)。その石部城について義賢が山中山城守(甲賀土豪)に送った極月(十二月)二十四日の書状には、越前の朝倉、江北の浅井両氏が没落したその後で、「佐久間父子、帥(ひきい)大軍攻石部館、抜(ぬき)菩提寺城、於石部堅固相沟畢(とどめおわんぬ)」(『甲賀郡史』)とみえ、さらに信長が、佐久間甚九郎に宛てた三月五日(天正二年か)の書状には、「仍甲賀郡内之物 、礼得其意候条、堅可申付候、石部表執出之儀ニ付、各精入候段、弥無油断 可為落居申候条、堅可申付候」(『水口町史』『甲賀郡志』では十二月五日)とあって、石部城(館)が佐久間父子の攻撃によって落城したこと、及び甲賀郡内の小土豪が信長に帰服したことから、石部館(城)に佐久間父子が落居して、その守りと監視を一層厳しくしていったことを伝えている。
信長直臣の武将、佐久間信盛は永原城にあって、延暦寺焼き打ち後に信長から野洲・栗太の両郡とその近郷の村々が安堵された。その信盛の石部城(館)攻撃は、野洲河原合戦後の六角氏と、それを支援した甲賀武士の壊滅を意図したものであったことが、信長の書状によっても想像されるが、その一方には、延暦寺の末寺で天台宗の長寿寺をもつ東寺を、同じ天台宗の常楽寺伽藍が存在した西寺が、ともに延暦寺領であったことに関連して、寺領の没収はもちろんのこと、宗派に対する徹底的な征伐の意図があったことも見落としてはならない。
延暦寺の焼き打ちに続いて、長寿寺と常楽寺が存在した石部も兵火に見舞われ、村落を消失した宗徒は四散していったが、幸いにも二ヶ寺は兵火をまぬがれることができた(『石部町史』)。二ヶ寺を残して焼失した。「甲賀口」石部郷の村落も、惣村的性格を残しつつも、城(館)付きの田中・植田・谷・蓮・平野の五ヶ村が石部に村落結合をみることになっていく(『同前』)。しかしながら、信長の急死と秀吉の登場は、石部郷の支配領主も交替をみることになっていったのである。
石部氏は、甲賀五十三家、青木氏の一族で、正式官名は青木氏を名のっていた。甲賀郡を本城観音寺城の奥の城とする近江守護職六角氏は、甲賀亡命のたびに石部城に寵城している。
長享元年(1487)の鈎の陣の戦いで六角高頼軍は将軍足利義尚に攻められ、石部城へ籠もった。
また、永禄11年(1568)六角承禎、義弼父子は、足利義昭を奉じて京へ上らんとした織田信長の上洛を阻止しようとしたが、観音寺城の支城である和田山城,箕作城を落とされて石部城に入った。
天正2年(1574)信長軍の佐久間信盛に石部城を攻められ、六角父子は脱出に成功するが、石部城は落城した。
文明年間(1469~87年)に三雲氏が築き、享禄年間(1528~32年)には青木秀正・石部家長父子が居城したとされます。長享元年(1487年)の鈎の陣の戦いでも、六角高頼は将軍足利義尚に攻められ、石部城へ立て籠もりました。
江戸時代は、東海道五十三次の五十一番目の宿が石部宿、京の都へはあと草津と大津を残すのみですが「京立ち石部泊まり」と云われるように、最初に草鞋の紐を解くのが此処・石部宿。鈴鹿越えの道は交通はもとより京都防衛の軍事的な要衝でもある。
近江守護職:六角氏にはお家騒動【永禄六年 (1563)承禎から家督を譲られた義弼が重臣後藤但馬守父子三人を謀殺した観音寺騒動】の後も。六角氏に従って織田信長に抵抗を続けた石部氏(青木氏の一族)と、六角氏滅亡を知る最期の砦となったの三雲氏築城の石部城ですが、歴史の町並みを語る石部にも、此の城と城史を語るものは何もありません。参道・石垣上に善隆寺が建ち、石部氏の菩提寺で其の境内が石部城跡で、石垣遺構が残るというが参道奥の高石垣が?。
山門を潜った右手に墓地と池庭の西は2m程の土塁?を越えて耕地が有り西端は南北に高い段差となって民家に接しています。甲賀の城の特徴は土塁が周囲を廻らすだけの簡単な構造の小規模な単郭方形の城が多いという。明確なしかも高さが1mを越す程の土塁が築かれる山城が兵庫丹波には殆ど無く、まして四方を巡る土塁など・東側の墓地端にも土塁の高まりが在り、其の先の竹藪は急傾斜で下方の民家側へ落込む8m程の崖状、東から南側の藪中には空堀跡とも思える溝が走る。寺の上部から東側民家の物置裏手には 竪堀らしい一本の大きな溝状も見られるが民家の主人は、遺構は兎も角・城が在った事もご存知無さそう。 車道に面する山門側からは想像出来ないが、東面の竹藪の中の崖の斜面・続く急斜面 (5~6m)を持つ平坦地と其の上部に積まれた寺の石垣が往時の城の石垣を彷彿とさせます!!。
石部城の城史を調べる前に⇒「惣」と甲賀五十三家(甲賀二十一家)
甲賀・伊賀と云えば忍者を真っ先の思い浮かびますが、両地方に於いては特定の領主に支配される事なく、在地土豪(地侍)達が生き残りや勢力領地拡大を図って互いに淘汰する事なく居城を構え、地域の自主独立連合体「惣」を形成し「郡中惣」 「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれる連合体が組織され、彼らの城郭が密集して存在した甲賀・伊賀は全国屈指の1300箇所の城館・城砦数を数える滋賀県内でも特に多く、甲賀市だけでも3~400にのぼると云われます。その「甲賀郡中惣」の同盟が形成された事により案件は多数決で決定する合議制により運営されていたと云います。
石部城の攻防
将軍足利義昭が追放され、さらに江北の浅井氏、越前の朝倉氏が滅ぶと、いよいよ信長の六角征伐は本格的になってきたのであった。一方、たび重なる六角氏のゲリラ戦法は。次第とその戦力が低下し、先述のように、元亀元年の野洲川合戦や天正二年の石部城籠城戦が、六角氏の戦国武将としての意地をみせる最後の戦闘となったのであった。なかでも石部城をめぐる攻防戦は、六角軍の最後の力量をみるにふさわしい合戦となった模様である。石部城は、甲賀武士青木石部氏の拠城で(後述)、この城を六月承禎は本拠地とし、信長の武将佐久間信盛を迎え討つことになったのである。『山中文書』年末詳十二月二十四日付「六角承禎書状」(『甲賀郡志』下巻)をみるとその戦いぶりを知ることができる。
先年、江州石部館へ出張せしめ、(織田)信長に対し確執に及ぶ、越前朝倉・江北浅井没落の後、佐久間父子(信盛・信栄)大軍を帥い、石部館を攻む、菩提寺城を抜き、石部において堅固に相构め畢んぬ、其方儀、軍忠を抽んで、取林寺熊之助の首を撃ち、その時他に異なる感状を与う、九月朔日より翌年四月十三日に達し籠城す、寄手柵十一ヶ所の附城、(山中)長俊等柵を破り、忍び出て敵を討つこと四度なり、退城の時、供奉して信楽に至る、敵これを躡うと雖も、追い払い事故なく信楽に着く、右の赴(趣)、今に至りて失念す、今我齢八十一に及ぶ、残命久しうべからず、且床に臥す、然れども当来後世の契約を成す故、改めてこれを書く、判形を加え筆跡其甚し、高定これを認むるの条、細に能わず候、恐々謹言、
極月に廿四日 (六角)承 禎 (花押)
山中山城守殿 参
菩提寺城を攻略し、石部城を包囲した佐久間軍は、封柵で城内を拘禁し、六角軍殲滅を計った。ところが、城内では山中長俊や石部家清など六角氏とともに闘い抜いてきた甲賀武士たちが、十一ヶ所の封柵を破って敵陣に反撃を加えたりした。六角軍がゲリラ戦術で、敵を威嚇したのであった。しかし、ついに籠城をあきらめ、信楽に脱出するに至った。六角軍の敗退であった。
なお、ここにこの合戦時にだされたと思われる信長軍の一通の黒印状がある。(『山中文書』年末詳三月五日付)。大変興味深い内容を持つものである。
書中に三色見来候、祝着せし候、毎々懇切浅からず候、仍て甲賀郡内の者共の礼、其意を得候、石部表の執出(砦)の儀に付、各精を入れ候段、弥由(油)断なく候て、落居たるべく候の条、堅く申し付くべく候、猶、來問を期し候、謹言、
三月五日 信 長 (黒印)
佐久間甚九郎殿
内容からみて、石部城が佐久間軍に攻められ、承禎が信楽に逃避した天正二年四月の直前に発給されたものと思われる。六角氏の滅亡寸前に、信長は甲賀武士たちが自軍になびきつつあることを意識して、佐久間信栄に油断なきよう差配することを命じているのである。はたして承禎に付き従った甲賀武士がいか程いたかは不明であるが、少なくともこの文章から知られることは、甲賀郡内の地侍たちが信長に帰順していることである。この合戦において信長は、ほぼ終焉を迎えたといってよかったのである。
参考資料:滋賀県中世城郭分布、淡海の城、日本城郭大系、信長公記、甲賀市史(甲賀の城)
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