城郭探訪

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山口陣屋(山口館) 近江国(甲賀・信楽)

2016年02月07日 | 陣屋

陣屋跡に『山口陣屋跡』碑建つ

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町下朝宮小字西堂坊 map:http://yahoo.jp/q2QKhA

別 称:山口館

区 分:陣屋

現 状:果樹畑

築城期:江戸期

築城者:山口氏

標 高:300m  比高差:ー

遺 構:基壇・空堀・切岸・腰巻石垣・曲廓・城跡碑

目 標:国道307号線沿い八坂神社

駐車場:国道307号線沿い八坂神社

訪城日:2016.2.5

お城の概要

 山口陣屋は山口氏の菩提寺である徳源寺の北西100m程の所に築かれていた。 現状は畑となっており、遺構には碑建つ、一段高く方形の土壇があり前方に小段が付いている。国道の反対側にある八坂神社は、寛永11年(1634年)に山口佐平太が社殿を創始し、元禄13年(1700年)に山口藤左衛門が社殿を再建の碑ある。

信楽町下朝宮集落の北、経塚山の山麓に位置している。
遺構は、山麓部を削り込んで台地とし造成した25m四方の区画を設け山側以外の三方を切岸とし、裾部に高さ1~2mの石垣を積み補強している。北西側には巾7mの谷状地形が認められ空堀跡とされる。陣屋の周辺には、山口氏の菩提寺である徳源寺や寛永11年(1634)に光正が社殿を創建した八坂神社が現存し、陣屋を中心に形成された集落形態が今も覗える。

歴 史

初代山口籐左衛門光英源助は朝宮城主として以来8代まで陣屋として存在していた。山口家が朝宮城領主として8代目まで陣屋として存在していた。多羅尾氏と親族である旗本山口氏の陣屋跡である。

天正10年(1582)光広の時、いわゆる「神君伊賀越え」に功があったとして、江戸時代に柞原下村、朝宮下村で各250石の500石余を与えられた。旗本として明治維新まで存続した。

 本能寺の変に先立って信長に招かれ安土で響応を受けた徳川家康は、変の時、和泉国堺界隈を遊覧しているところであった。信長死去のことを聞いた家康は、ただちに京師に馬を進めんて光秀を征伐せんとした。しかし、家臣らは寡兵の故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て漸く近江路へと落ちていった。
 ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、事変当時、家康とともに和泉方面にあったが、家康主従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いいかえれば、家康もまた非常に危険な状況に身をおいていたのである。
 長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。光広は多羅尾光俊の五男で、山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎え入れ、このことを父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居宅に家康主従を迎え入れた。光俊は嗣子光太、三男光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて家康を護衛、伊賀路を誘導した。そして、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届けることに功をなした。
菩提寺 徳源寺

やまいの看板の見える、畦道正面が陣屋跡

信楽川の八坂橋

八坂神社

滋賀県甲賀市信楽町下朝宮341

由緒書

八坂神社前の駐車可

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、武家家伝多羅尾氏、信楽の狸物語 狸宗苑のHP「山口陣屋跡と狸 (下朝宮)」

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


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