下日吉城
- お城のデータ
- 所在地:東近江市(旧神崎)五個荘日吉町(旧:下日吉町) map:http://yahoo.jp/LvG-UJ
- 現 状:農地(田地・畑地)
- 区 分:居館
- 築城期:室町期
- 築城者:葛若後藤
- 遺 構:ー
- 目標地:KIMURA SUℚAℝE GAℝDEN(バティングセンター)
- 駐車場:KIMURA SUℚAℝE GAℝDEN近くに路上駐車
- 訪城日:2016.5.1
- お城の概要
- 「滋賀県中世城郭分布調査4」では、下日吉の集落西南に「城」・「城跡」という小字が存在し、周囲を川が流れていることから城館跡と考えられる。
- 遺跡ウォーカーの比定地で、畑作業の古老の話では、集落までの「水田・畑地が城址」との事、
- お城の歴史
- 『佐々木南北諸氏帳』には、「神崎郡 下日吉 佐々木隋兵元周防 葛若後藤」の名を記す。
- 詳細不明
五箇荘は、
七里や五位田など条里制に由来する地名があることから、古代から開発が進んでいたと考えられる。律令制下では建部郷(現在の五個荘南部から八日市北部)と小幡郷(現在の五個荘北部から能登川東部)に属していた。建部郷は建部氏の本拠地であったとされる。
中世には大きく分けて、建部荘(日吉社領→建部社領)・山前荘(日吉社領→延暦寺領→皇室領)・小幡荘(藤原氏領)の三つの荘園があり、六角氏が守護大名として支配した。六角氏の本拠地に隣接するため町域各地に城砦が築かれ、のちに織田信長との観音寺城の戦いでは町域全域が戦場となった。
室町時代には東山道に近い小幡三郷(現在の小幡・中・簗瀬)から商人が起こり、伊勢方面で活動する四本商人(保内・石堂・沓掛と小幡)と若狭方面で活動する五箇商人(八坂・薩摩・田中江・高島南市と小幡)の二つの商業集団に属した。商業利権を巡って保内商人との争いが絶えず、小幡商人は徐々に衰退するが、一部は安土城下、さらに八幡山城下へと移り、八幡商人の一部となった。近江八幡市の旧市街には現在も小幡町という町名が残っている。
江戸時代には、初期は幕府と彦根藩、貞享2年(1685)以降は彦根藩と郡山藩が領有した。彦根藩の商業自由化政策もあって、享保以降、金堂・川並・山本・宮荘など町域各地から多くの商人が発生した。
畑作業をしていた古老
ここが城址だと。
日吉集落内
堀か?
目標地のKIMURA SUℚAℝE GAℝDEN=バティングセンター
駐車位置から遠景・・・背後の山は伊庭山
- 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4「旧蒲生・神崎郡の城」、 Wikipedia
- 本日の訪問ありがとうございす!!