=家康最大のピンチ救った功労者=
◇甲賀
徳川家康最大の危機は、本能寺の変後、堺から本拠地・三河(愛知県)への逃避行。俗に「神君(家康)伊賀越え」と吹聴され、服部半蔵ら伊賀忍者の活躍がクローズアップされがちだが、近年は甲賀忍者(衆)の貢献度の大きさや、その勢力圏を通過したことから、「神君甲賀伊賀越え」とする見方が注目される。今年は家康の没後四百年。地元の甲賀忍術研究会(辻邦夫会長)はこれを機に甲賀忍者の面目躍如を図ろうと、六月十一日、家康から直系十九代目の徳川家広氏を招いて、実際に逃避行のルートをたどるツアーを実施する。当日は甲賀忍者の子孫が「護衛」し、新進気鋭の歴史学者、磯田道史氏も同行する。【高山周治】
徳川宗家19代目家広氏迎え 地元研究会「神君甲賀伊賀越え」ツアー
定説のルートは、多羅尾氏の本拠だった小川(甲賀市信楽町小川)から御斎峠(伊賀市)へ向かい、柘植(同)から加太峠(同)を越えて、伊勢湾の白子浜(三重県鈴鹿市)から海路で三河へ向かったとされるが、実は小川~柘植間のルートについては確かな裏付けはない。
これについて甲賀忍術研究会の辻会長は、信長が伊賀国に侵攻した天正伊賀の乱(一五八一)が前年に勃発したばかりだったこともあって、「伊賀越えは最も危険なルートで現実的でない。伊賀衆の残党にとって、信長の同盟者である家康は敵の一人で、命を奪おうとするものが多くいただろう。しかし、伊賀越えルートが定着したのは、あえて死地を突破することで、神君(家康)の箔(はく)をつけようとしたのでは」とみる。
複数伝わる「神君甲賀伊賀越え」ルートを見入る研究会のメンバー。左端が会長の辻さん
一方、「神君甲賀伊賀越え」とされるルートは、甲賀市信楽町小川→同神山→伊賀市槙山(まきやま)→同玉瀧→同湯舟→同小杉→同柘植に至るもので、「伊賀越えと比較すれば、より安全で自然」と支持する。
このうち、槙山以下は国境ぎりぎりで伊賀国に入るが、信長が伊賀を平定したのち、旧伊賀領を甲賀衆の多羅尾氏や和田氏に与えており、事実上の近江領といえそうだ。
このほかにも、「家康の一行数十人の宿泊所を確保するには、戦火で荒廃していた伊賀よりも、寺院の多い甲賀の方が有利」と、甲賀越えを補強する。
なお、神君甲賀伊賀越えをたどるツアーは六月十一日に実施される。参加費は三千円(バス代、軽食代など含む)。定員二十人(参加多数の場合は抽選)。
当日は午前八時半に甲賀市甲南支所に集合、出発し、JR京都駅で徳川・磯田の両氏を迎え、家康が宿泊、休憩したとされる旧跡付近を散策したり、徳川四代の位牌が伝わる明王寺(甲賀市甲南町)で家康の四百年忌法要に参列する。
また、翌十二日の忍者検定は、忍の里プララ(甲賀市甲南町)で実施される。午前は初級、中級、上級の各検定。午後は徳川家広氏と磯田道史氏が対談する。受検料二千円。対談は無料。