お城のデータ
所在地:近江八幡市安土町常楽寺 (蒲生郡安土町常楽寺) map:http://yahoo.jp/-IBvOo
別 名:常楽寺城
現 状:田畑
区 分:水城
遺 構:水路
築城者:木村氏
築城期:室町期
城 主:沙沙貴神社の神官であった木村氏が城主
廃 城:元亀元年(1570)落窪の戦いを最後に六角氏が滅びると常楽寺城も廃城となった。
目標地:常濱水辺公園
駐車場:常濱水辺公園駐車場
訪城日:2013.4.11
お城の概要
常楽寺城は観音寺城の西約2kmに位置し、湖岸近くに築城され常楽寺港を押さえる城である。
常濱水辺公園に隣接する畑地一帯とされ、発掘によって堀を検出したとされるが、現在では遺構らしきものは残されておらず、唯一、畑地が微高地であるのが面影を止めている。
なお、常濱水辺公園一帯には、常楽寺港の舟入が住宅地の中に残っている。
歴 史
常楽寺城は琵琶湖の海上ルートを押さえる目的で築城されたと考えられ、代々、佐々木氏の源流狭々城山君の支流で沙沙貴神社の神官であった木村氏が城主であったとされる。
永正4年(1507)管領細川氏の家督争いに端を発した将軍職の争いで、前将軍足利義材によって将軍職を追われた足利義澄を水茎岡山城に保護した伊庭氏の家臣・九里備前守、および伊庭貞隆と六角高頼の戦い(第二次伊庭の乱)で、木村城は伊庭方に攻められ落城した。
六角氏と家臣・伊庭氏との戦いは永正11年(1514)から6年の長きにわたって続き、永正17年(1520)水茎岡山城の落城を契機に六角氏が勝利を得るが、元亀元年(1570)落窪の戦いを最後に六角氏が滅びると常楽寺城も廃城となった。
常楽寺城は廃城となるが、南近江を掌握した織田信長は、天正4年(1576)安土城を築城するまでの間にたびたび常楽寺に宿泊している。
また、元亀2年(1571)には常楽寺港から一向一揆が立て籠もる金ヶ森城を攻め、また元亀3年(1571)には常楽寺から志賀郡の木戸城,田中城攻めに出陣している。
常濱水辺公園に隣接する畑地一帯とされ、発掘によって堀を検出したとされるが、現在では遺構らしきものは残されておらず、唯一、畑地が微高地であるのが面影を止めている。
なお、常濱水辺公園一帯には、常楽寺港の舟入が住宅地の中に残っている。
常楽寺城は観音寺城の西約2kmに位置し、湖岸近くに築城され常楽寺港を押さえる城である。で築城されたと考えられ、代々、佐々木氏の源流狭々城山君の支流で沙沙貴神社の神官であった木村氏が城主であったとされる。
永正4年(1507)管領細川氏の家督争いに端を発した将軍職の争いで、前将軍足利義材によって将軍職を追われた足利義澄を水茎岡山城に保護した伊庭氏の家臣・九里備前守、および伊庭貞隆と六角高頼の戦い(第二次伊庭の乱)で、木村城は伊庭方に攻められ落城した。
六角氏と家臣・伊庭氏との戦いは永正11年(1514)から6年の長きにわたって続き、永正17年(1520)水茎岡山城の落城を契機に六角氏が勝利を得るが、元亀元年(1570)落窪の戦いを最後に六角氏が滅びると常楽寺城も廃城となった。
常楽寺城は廃城となるが、南近江を掌握した織田信長は、天正4年(1576)安土城を築城するまでの間にたびたび常楽寺に宿泊している。
また、元亀2年(1571)には常楽寺港から一向一揆が立て籠もる金ヶ森城を攻め、また元亀3年(1571)には常楽寺から志賀郡の木戸城,田中城攻めに出陣している。
城址跡。六角氏の家臣木村氏の居館であった。
舟入跡
梅ノ川(湧き水)
城址側の畑・石垣
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参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江八幡の城、日本城郭体系11
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!