城郭探訪

yamaziro

長浜城址(歴史博物館) 近江国(長浜)

2013年04月10日 | 平城

JR長浜駅で解散長浜駅西口・・・長浜城(博物館)へは、こちらから

イメージ 4かつての長浜城。

イメージ 6ちょっと北にいったところに、山内一豊屋敷跡。

イメージ 8現在公園になっているところの前の道は内堀跡。イメージ 9

イメージ 10「ほんまるばし」を渡る。

イメージ 11長浜城址碑と模擬天守。

イメージ 12説明板。

お城の概要

別 名:今浜城

所在地:長浜市公園町本丸10-10

現 状:長浜豊公園

遺 構:模擬天守・石垣・井戸跡・堀跡・移築門

区 分:平城 (水城)

築城者:佐々木道誉(高氏)  改築者:羽柴秀吉

築城期:建武3年・延元元年(1336)

城 主:羽柴秀吉・柴田勝豊・山内一豊・内藤信成

訪城日2013.4.10

長浜城は、天下人豊臣(羽柴)秀吉が一国の主となって最初に築城した城である。築城から廃城までわずか41年、秀吉の在城期間は、ほんの7年に過ぎないにも関わらず、長浜城主秀吉の印象が強いのは、長浜の地が天下人秀吉の出世街道の出発点にあるからであろう。

 また、秀吉が山崎宝寺城→大坂城と居城を移してからもなお、長浜民衆との関わりは深く、現在でも市民の中で称えられている。長浜城周辺を豊公園と呼ぶのは豊臣に由来している。

そして06年、大河「功名が辻」の放映で、長浜は再び脚光を浴びた。秀吉ののち城主となった山内一豊も、初めて国を与えられたのが長浜なのである。

イメージ 13模擬天守。各地で良く見る典型的な模擬天守ですね。イメージ 14前にあった石垣の根石。

イメージ 16模擬天守から長浜市街。

イメージ 17模擬天守から豊公園と琵琶湖を見る。
イメージ 18天守裏の公園の道。残存石垣か!

イメージ 19その横の土盛りが天守台跡。
イメージ 20長浜城と「おかね」さん。

イメージ 21天守閣跡の碑。

イメージ 22説明板。いっぱい石碑が建ってるなぁ~

イメージ 23地図を拡大。

イメージ 24豊臣秀吉。

イメージ 25湖畔には太閤井がある。残念ながら水没していて見えない。渇水期に来るしかない。イメージ 26石垣出土地。
イメージ 27公園内の各所で石垣が出土したようだ。

歴 史

 長浜の地は、秀吉入城以前は今浜といった。延元元年(1336)、近江守護の佐々木道誉がこの地に築城し、家臣の今浜氏が守将として在城したのが始まりである。

信長は、元亀元年(1570)の姉川の合戦で手中に治めた横山城の城代として秀吉を入れた。その後、天正元年(1573)小谷城攻め、浅井氏滅亡に至るまでの裏工作など、作戦の一番の功労者であった羽柴秀吉に、浅井氏旧領の江北三郡12万石が与えられた。
秀吉は小谷城に入城するも、利便性を考え、新たに今浜に築城を開始した。天正3年(1575)竣工した今浜城を、信長の長の字を冠して長浜城と改名する。

天正10年(1582)6月、本能寺の変後の清州会議で、秀吉は山城・丹波に国替えとなり、長浜城は、柴田勝家の甥・勝豊が城主となった。しかし間もなく秀吉と勝家の対立が激化、秀吉は同年11月には勝豊を降伏させ長浜城を奪取、翌年4月の賤ヶ岳合戦の拠点となった。

賤ヶ岳の合戦後、しばらく佐和山城主堀秀政の支配下に置かれたのち、天正13年(1585)山内一豊が2万石で入封する。
天正18年(1590)一豊が遠江掛川へ転封すると、西尾豊後守らが城代として在城し、関ヶ原合戦後は江戸幕府領となる。
慶長11年(1606)内藤信成(家康の異母弟)が4万石で入城し、城を大修築した。
元和元年(1615)内藤信正が摂津高槻に移封されると、長浜は彦根藩領に組み込まれ、以後長浜城は廃城となる。
昭和58年(1983)市立長浜城歴史博物館として天守が復興された

 



イメージ 28本丸跡の碑。

イメージ 29公園内のテニスコート付近には御殿

 

長浜浪漫ビール前の外堀跡碑

長浜駅前に建つ秀吉と石田三成 出逢いの像

天守跡に建つ秀吉像豊国神社と加藤清正像本丸橋石垣出土地御蔵屋敷跡御馬屋跡家臣団屋敷跡大手門跡外堀跡秀吉の長男秀勝(石松丸)廟所移築大手門(大通寺)移築搦め手門(知善院)

 

 

今浜城の戦い

 北近江の守護大名は京極氏で、戦国初期の段階では京極高清(たかきよ)が当主だっが、その跡継ぎを誰にするかで争いが起こった。
高清の子供のうち、弟の高慶(たかよし)が選ばれた。高清の意向と同時に、京極氏の重臣中の重臣であり、守護代をつとめていた上坂信光(こうさかのぶみつ)が高慶を推したからといわれている。

これに対し、上坂信光の専横的な行動を日頃から快からず思っていた部将たちは、高慶の兄高延(たかのぶ)への守護職継承を主張し、京極高清・上坂信光と敵対する行動に出たのである。

高延への相続を主張したのは浅見貞則をはじめ、浅井亮政・三田村忠政・堀元積・今井越前らで、京極氏譜代の家臣であり、国人領主として位置づけられ、「国人一揆」の名で呼ばれている。
彼等は浅見貞則の居城、尾上城に集結した。これに対し上坂信光は機先を制そうと、軍兵を率いて安養寺まで出陣した。
ところが、国人一揆の方が上坂軍に攻めかかり、上坂軍は今浜城に退いて、ここで合戦が繰り広げられたのである。

 上坂信光は今浜城を支えることができず、高清の本拠である上平城に逃れ、さらにそこから尾張へ落ちて行った。
結局、国人一揆に擁立された高延が新守護になったのだが、今度は国人一揆の盟主だった浅見貞則に不満が集中。やがてその不満をたくみに利用した浅井亮政が貞則を倒す事に成功し、北近江一の実力者にのし上がって行ったのである。
浅井氏の台頭を物語る一戦であった。

 その浅井攻めの功績により、浅井の旧領と小谷城を与えられた秀吉が今浜城跡に目を付け、ここに築城した秀吉の最初の居城、長浜城はあまりにも有名であり、そして皮肉な物である。

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城

 

 

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 

 


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