城郭探訪

yamaziro

水茎岡山城 近江国(近江八幡) 

2013年03月23日 | 平城

 水茎岡山城(滋賀県近江八幡市牧町) 別 名:岡山城

遺 構:土塁、石垣、堀切、竪堀   山城(標高187.7m、比高102m)                                                           築 城 者:九里備前守信隆      築 城 年:永正5年(1508)頃

八幡山から見た水茎岡山城。

西の野洲川から

 

縄張り図【頭山に本丸。大山に二の丸。亀山に三の丸

水城(昭和24年頃)・・・戦争の引揚者の為に干拓

発掘調査の遺構図

 

大山登り口

                  ムベが群生

蒲生野に狩りに出かけた天智天皇がこの地で、8人の子供を持つ大変元気で健康的な老夫婦に出会いました。
天智天皇がこの老夫婦に、「汝ら如何に斯く長寿ぞ」と長寿の秘訣を尋ねたところ、老夫婦は、「この地で取れる無病長寿の霊果を毎年秋に食します」と言いながら、ひとつの果実を差し出しました。それならば食べてみようと天智天皇もその果物を一口食べました。すると、「むべなるかな(もっともであるな)」と一言天皇は言ったのです。

      三角点          頭山(主郭)http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/33b530bb30ea328ab7f3e37e6464122e

 

お城の概要

この城は、今は陸続きで、琵琶湖に接する頭山(東下は牧水泳場)、と南の岡山(大山)との間に湖岸道路が通っていますが、往時は完全に琵琶湖の中の浮城だった。

史料では頭山が主郭、大山が二ノ郭・三ノ郭・・・のよう。大山には湖岸道路の老人施設水茎の里横の水道施設への階段を一気に登り、山腹(階段左側)の水道施設の裏手をさらに登ります。

山頂部には郭が並び、堀切・空堀・竪堀など確認できます。山の南斜面から山麓部分に多くの段郭と空堀がある。

歴  史
南北朝期に佐々木氏の支城として築城され、永正五年(1508年)に足利十一代将軍義澄が六角氏の重臣伊庭氏と伊庭氏の家臣九里氏を頼って都より落ち延びて来て岡山城に入った頃より本格的な改修がされたものとの事です。この事態は六角氏と伊庭・九里両氏との間を悪くし、義澄が永正六年(1509年)に当城で病死して以後、永正十七年(1520年)、ついに六角定頼はこの城を攻め開城させました。後、大永五年(1525年)に伊庭氏・九里氏が再び籠りましたが、六角氏に破れ城も廃城になりました。 <資料より>

 水茎岡山城は近江八幡城の西方、琵琶湖に面した頭山に築かれた山城である。伝によれば、南北朝時代に六角氏の湖上警備の城として築かれ、戦国時代最中の永正五年(1508)ころより本格的な築城が行われたようだ。                                      かつては琵琶湖に浮かぶ水城であったが、戦後の干拓事業によって周囲が埋め立てられてしまい、戦国時代に「湖中の浮城」といわれた風情はない。戦国時代の城主は、六角氏の被官九里氏であった。
 水茎岡山城が戦国史に大きな足跡を刻んだのは、幕府内における抗争に敗れた十二代将軍足利義澄をかくまったことである。当時、幕府は管領細川氏の内部抗争が続き、将軍はまったく政争の具ともいえる傀儡状態であった。義澄は細川澄元にかつがれて将軍職にあったが、細川高国と大内義興のかつぐ前将軍足利義尹(のち義稙)に京を追われ、近江に逃れて岡山城に入り再起を期したのである。しかし、京への復帰はならず、永正八年(1511年)、むなしくこの城で病没した。その後、六角氏と伊庭氏との間で抗争が起こると、九里氏は伊庭氏に与して活躍したが、敗れて岡山城は廃城となった。

 

  •  城址は南の大山と北側の頭山にあったが、内湖の埋め立て事業、さざなみ道路の敷設などにより遺構は少なからぬ破壊を受けたようだ。とくに頭山側は、造成工事によってほとんど破壊されたようである。大山山上の城址へはさざなみ道路側にある「水茎岡山城址」の石碑が目印となり、そこから山腹の貯水場まで溜息が出る急な階段が設けられている。
    貯水場から細い山道を登りきると、そこはすでに城址東端の大土塁である。大土塁の南側に帯曲輪があり、そのまま城址の南側をまくように曲輪は続いている。東の大土塁と主郭切岸は、そのまま堀切を形成し、北側にも帯曲輪が取り巻き、帯曲輪の北側には土塁が築かれている。主郭は中央の大堀切で東と西に区画され、それぞれ居住するうえで十分な広さをもっている。遺構の保存状態は悪くなく、堀切・土塁・切岸・帯曲輪などなど戦国山城の醍醐味を堪能できる城址だ。
    山上の曲輪群のほかに、山腹にも曲輪が設けられ、山麓には日常の居館があった。発掘調査によって居館址からは石垣が検出されたといい、将軍をかくまった城にふさわしい結構を持った城址である
  • 岡山城は、南北朝期に、佐々木六角氏により、琵琶湖警護の支城として築かれたのが始めとされる。
    本格的な築城は、永正5年(1508)に、室町11代将軍・足利義澄が、前将軍・足利義材(よしき)の入京によって近江に逃れ、伊庭氏、九里氏を頼って岡山城に入った頃と、考えられている。
  • 永正7年(1510)、将軍に返り咲いた足利義材改め義稙(よしたね)の命により、細川高国、大内義興が岡山城を攻めるが、撃退する。
  • 永正8年(1511)、足利義澄の嫡男・亀王丸(後の第12代将軍・義晴)が、城内で誕生する。同年、足利義澄は、京に攻め上るが、敗走して城に戻った後、8月、本城で死去する。
  • 永正17年(1520)、伊庭貞説(じょうせつ)・九里浄椿(じょうちん)と、六角氏の間に不和が起り、六角高頼と細川高国の軍に攻められ、40日の籠城の後、開城する。
  • 大栄5年(1525)、伊庭・九里氏の残党が城に立て籠もるが、黒橋(近江八幡市西の庄町黒橋川の河原)の戦いで六角氏に破れ、以後廃城となる。
  • 岡山城は、大山(標高187.7m)と頭山(標高147.7m)とに跨って築城され、主郭は大山の山頂部に設けられている。戦後、水茎内湖が埋め立てられるまで、内湖に囲まれており、湖中の浮き城となっていた。また水茎の岡として、歌にも詠まれる景勝地であった。
    大山山頂部に、曲輪の遺構が良好に残存するらしいが、生い茂る藪や潅木により到達することができず、未確認。大山と頭山の間の鞍部は、湖岸道路を通すために崩され、二つの山は切り離されている。
  • そのとき、一見したところ小さな山であり、将軍をかくまった城というには小さすぎる感をいだいた。今回、登ってみて意外にも大きくな縄張で、土塁、曲輪、切岸、堀切などの保存状態もよく、「なるほど!これなら…」と納得させられる素晴らしさであった。

  • 政争に敗れてこの城で没した義澄はの子で十二代将軍となった義晴はここ岡山城で生まれた。義晴もまた細川氏の抗争に翻弄され、勝ったり負けたりを繰り返して京と近江を往来した。そして、足利幕府は確実に衰退、義晴の子義輝は下剋上によって殺害されるという最期を迎えた。
    そんな足利幕府の興亡史に名を刻んだ岡山城、世の栄枯盛衰を惻惻と感じざるにはいられないところである。今回は、山上界隈だけの探訪で時間切れとなったため、義澄が澄んだであろう山麓の居館址をたずねることができなかったのは心残りであった。山腹の曲輪群探索と併せて、近いうちに再訪したいところである。

右が頭山【主郭】

大山・・・山頂に郭群

  

  

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


最新の画像もっと見る