平親真
平 親真/忌部 親真(たいら の ちかざね/ いみべ の ちかざね、生年不詳 - 正元2年2月18日(1260年3月31日)/正応3年2月19日(1290年3月31日)[1][2])は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物。織田氏・津田氏の祖とされ、織田 親真とも呼ばれる[3]。別諱は親実とも表記される。通称は三郎。官位は権大夫。
経歴 [編集]
神祇権大祐・斎部親澄と富田三郎基度の孫娘(あるいは蒲生親長の娘)との間の子とされる。貞永2年(1233年)越前国丹生郡織田荘の織田神社(劔神社)神主。正嘉2年(1258年)出家し、覚性と号した。
平資盛の子とする説 [編集]
一般に流布している織田氏の系図[4]では、親真を平資盛と資盛の愛妾[5]であった三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪の間の子とする。
寿永4年(1185年)の平家滅亡に際して、資盛は子を身ごもっていた親真の母を近江蒲生郡津田庄に隠した[6]。母はそこで親真を産み、津田の土豪の妻となり、親真も津田姓と名乗ったとされる。その後、親真は斎部親澄の養子となり、斎部姓へ改め、神職についたという。その後、親真が剃髪して、覚盛と号したとされる。
しかし、この説は親真の後裔にあたる織田信長が天下統一した際に、本姓を藤原氏から桓武平氏に改姓するために系譜を仮冒したものであり、実際には資盛の実子である覚盛と親真とは別人と考えられている。2011年(平成23年)11月1日、福井県越前町教育委員会の発表によると、同町法楽寺で発見された親真の墓石の一部に親真死亡年月日が刻まれており、資盛の子だとすると100歳を超えることが明らかとなった[1][2]ため、小和田哲男は平氏に繋がる家系図は書き換えたものとしている[2]。
脚注 [編集]
=近江八幡市南津田町に有志で=

◇東近江・近江八幡
天下の名将、織田信長のルーツは近江八幡市南津田町の津田親眞(つだ・ちかざね 一一八三―一二五九)であることを示す顕彰碑が地元に建立され、このほど除幕式が行われた。
顕彰碑は、平成二十年九月に発足して地域の歴史の掘り起こし、住民にもほとんど知られていなかった津田親眞の史実を発見した津田荘歴史研究会(速水貞夫会長)や有志らが、誇るべき郷土の歴史に光を当て、後世に継承し、歴史のまちづくりの起爆剤にしようと、平成二十一年八月から顕彰碑建設をめざして研究調査、資金調達に取り組み、実現させた。
研究会会員から提供された私有地に整備したポケットパークに、白御影石製の高さ二・五メートル、幅一・三メートルの「近江国 津田・織田一族始祖 津田親眞顕彰之碑」と、高さ一・六メートル、幅〇・八メートルの由来の碑が立つ。また、建立を記念した冨士谷英正市長による記念樹が植樹されている。
除幕式では、執念の大発見とも言える研究会の調査研究の成果が披露された。「平安末期、平資盛(すけもり)の子として近江国津田郷で誕生した親眞は、越前国(現在の福井県)織田荘の劔神社に養子に行き、その子孫が尾張守護職となり織田に改名し、親眞から十四代目の子孫として信長が誕生する」ことを証明するため研究会はあきらめずに現地調査を続けた結果、福井県丹生郡越前町(旧・織田町)の法楽寺で放置されていた地輪(五輪塔)に刻印された「親眞阿聖霊正應三年庚寅二月十九日未尅」の文字と位牌、劔神社の伝系図に息子の親基が父の命日に五輪塔を法楽寺に建立したという記述を発見。親眞と信長(織田家)をつなぐ物証を得た。顕彰碑には、両家の同一の家紋「五ツ木瓜」が刻まれている。
関係者や県・市議ら約四十人の出席者を前に、有志を代表して西川新五良さんは「安土町と近江八幡市の合併記念になった。南津田町の宝にしたい」と、歴史会の努力と大勢の人の協力に感謝した。
冨士谷市長は研究会の努力に敬意を表し、「安土と津田のつながりを感じた。津田のまちづくりの礎に、また、このような活動が(たくさんの文化財が埋もれている)市内に広がることを願う」と祝った。http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0008532