城郭探訪

yamaziro

浅井三代記 第十六(全文) (転載)

2013年04月17日 | 番外編

浅井三代記(16)

第十六(全文)

 

本文

備考

朝倉浅井堅田寺内を取返す事 附坂井右近討死の事

斯而堅田の地下人一統して信長卿の勢を引入、浅井朝倉が役人共悉く討取旨、浅井朝倉両将の許へ注進有しかば、味方の諸勢いろをうしなひ、あはて騒ぐ事おびたゞし。浅井朝倉家老共を近付被レ申けるは、東近江越前への通路を敵堅田にてとりきらば、誠に鳥ならではかけりがたし、兎やせん角やあらんと評議したまふに、朝倉義景被レ申けるは、とかく信長の本陣へ切入、一戦をとぐるか、又は朽木越を可レ落かと被レ申ければ、備前守長政の曰、敵陣へ切入といふ共、敵籠城したる数万の勢なればやはか利有べしとも不レ覚、又ぬけ道へまはるとも敵よも落さし追討にうたれ、末代迄の悪名をとゞめむより、明日は未明に堅田へ人数四五十計出し、無二無三に一刻に責つぶし、坂井右近が首を刎んに何の子細候べきと被レ申ければ、義景の家老朝倉式部大輔、山崎長門守進出て、長政の仰誠にゆゝしく御座候。明日の御先は某等両人可レ仕と申により、評議一統してあけゝれば、十一月廿四日に義景方には朝倉式部大夫、山崎長門守を侍大将として三千餘騎、浅井方には赤尾美作守、浅井玄蕃亮、侍大将として二千餘騎、都合其勢五千餘騎なり。浅井勢は朝倉勢の後陣也。斯而三千の勢を三手に作り堅田へ押寄る。坂井右近は是を見て一千餘騎の勢を五百余騎は引かへす。残る五百の勢にて堅田の町面へ討て出る。越前勢五百計弓鉄炮を射かけ打かくれば、右近も弓鉄炮を射かけ打かくれば、右近も弓鉄炮を敵を以あいしらふ。越前勢敵を小勢成と勝にのり、はや鑓を入、面もふらず突懸る。右近は本より巧者也。しばしさゝへ敵の色を見てかゝれ/\と下知すれば、右近が五百余騎一度に撞と突かゝる。越前勢引色に見えたりけるが、山崎は是を見て、きたなし味方の者共よ、我一軍してみせんとて五百計おめきさけむですゝめば、右近此いきほひに突立られ、一町計引退く跡をしたがふて突かゝる。右近能時分を引請、取て返し、火花を散して戦へば、右近がかくし勢五百計撞と喚て真黒にて成、面もふらず突かゝる。越前勢足をしどろにみだし、既に崩れんとせし處に、式部大輔は其を引なと云まゝに、馬煙を立てかけ込ば、浅井が勢も備へて待て何にかせんとて、相かゝりに突かゝる。てき味方入違へ、互に命も不レ惜たゝかへば、右近は寺内へ引入むとする處を、味方堀きは迄ひしと付、寺内を付入にせんとせしを右近取て返し、敵を四方へ追払ひ、其透に寺内へ懸入ば、朝倉浅井が兵ども寺内をおつ取巻より、はや堀へひた/\と飛込/\、我先にと乗込ば、右近も大剛の兵なれば、走り廻て下知すれ共、敵は多勢味方は小勢叶はずして、遂に討死したりける。浦野源八父子、坂井十介、馬場居初もはしたなく働、右近は小勢叶はずして遂に討死す。味方にも前波藤左衛門尉、堀平右衛門尉、中村木工之丞きらびやかに相働討死す。是は朝倉が兵也。浅井方には浅井甚七、赤尾甚介、田那部平内、八木又八郎ゆゝしき働して討死す。總じて其時の責口にては、敵味方にて寺内の堀は平地と成、かくて義景長政寺内を取かへすといひ、坂井右近討取事浅からざりし次第なりとて、喜の事は限なし。則堅田を拵て朝倉よりは堀江七郎平、浅井よりは月ガ瀬若狭守を入をかる。去程に信長卿は坂井右近討死の次第をきゝたまひ、われらが命にかはるといひ、数度の忠功報しがたしとて鎧の袖をぬらし給ふぞ忝なき。

 
 

信長與2朝倉浅井1和睦の事

斯而元亀元年の歳も極月にせまりければ、雪いたく降積りぬれば、敵味方の足軽せり合も止けれ共、軍兵殊の外勇気をつからし侍れば、信長卿より御内意こそ侍りけめ。室町殿時分をはかりたまひ、信長も浅井朝倉も対陣につかるべし。曖を可レ入と思召、双方中和せしむべき趣、信長卿の本へ仰こされければ、本より信長卿は内通したまひける事なり。其上森三左衛門尉、坂井右近、左右の臣は両月の間にうたれぬ。朝倉浅井は山門を城にかまへ陣取いきほひをなせば幸と思ひたまひ、とも角も御諚次第と御請申上させたまふゆへ、浅井朝倉両人の方へも将軍の御使として中和可レ仕旨被2仰越1ければ、両人右の趣承、将軍の仰尤忝奉レ存旨侯へ共、信長卿はよく契約を違へ被レ申、人の事にて御座侯へば、相心得難く奉レ存旨申上承引申さゝれ共、御使再三に及び、其上将軍御諚として向後よりしては、互の領分へ手さし有間敷旨誓紙を取かはし、和睦重て相調りける。それよりして信長勢を引取たまへば、朝倉浅井も諸勢悉く叡山面を引取ける。其時浅井朝倉叡山にて対陣をはり、越年して大坂野田福島といひ合せ、後巻をせさする物ならば、なんなく信長卿を討取べきものを児童の様成浅き曖かなと、京童は笑ひける。扨信長卿は室町殿に御いとまごひしたまひて、坂本を立て佐和山の麓鳥井本に着せたまへば、丹羽五郎左衛門尉、水野下野守御迎に罷出被レ申けるは、今度は永々御対陣被レ成候之所に、味方無レ恙渡らせたまひ、朝倉浅井と御和睦被レ成候段、目出度奉レ存旨申上ければ、信長卿たはぶれさせたまひ、世間の世話にて被レ仰けるは、我等の無事は申待の夜の歌なりと宣ひ打わらはせたまひ。やゝ有て丹羽五郎左衛門尉を近付、潜に被2仰付1けるは、汝は随分智謀をめぐらし、當城磯野丹波守を味方に引入可レ申と被2仰置1、極月十日に岐阜に帰城したまひける。

 
 

磯野丹波守佐和山城を開退事

斯而丹羽五郎左衛門尉、内縁を以信長卿の仰の通を城中へ申入けれ共、丹波守も先同心せざりける。され共、此事度々におよべば、員正が口も少やはらかにぞ成にける。かゝりける處に、信長卿、元亀二年二月中旬に、其勢二万余騎を引率し、佐和山面へ発向し、佐和山の城を幾重ともなく取巻たまひ責させたまふ。磯野元来剛の者なれば、敵近付ば切払ひ、勇気をはげましければ、たやすく可レ落とも見ざりける。丹波守員正たび/\小谷へ後巻をこひけれど、終に其沙汰あらざれば、防ぐ兵も勇気いよいよおとろえければ、丹波はよき時分と心得て、員正が方へ申遣しけるは、今度信長卿へ忠節したまはゞ、ゆく末迄も可レ然候はん。同心あれと申越、員正心に思ふやう、兎角當城を開渡、小谷へつほみ、味方の雌雄を可2見届1とおもひ、丹羽に返事申けるは、此方よりもたしか成。人質を指上べし。信長卿よりも慥なる人質たまはるにおいては、當城をあけ渡すべしと申越ければ、丹羽大によろこび、信長卿へ此旨申上れば、信長卿不レ斜おぼしめし、さあらば人質を可レ遣とて織田おきくを被レ遣ければ、員正は男子壹人も持ざれば、女子一人を指上、佐和山をあけ渡し、小谷をさして来りけるが、長政内々磯野二心有よし聞たまひ、磯野が人質老母を張付にかけ、丁野山にさらし置、小谷の内へ入ざれば、己が知行處西近江高島郡へ引退きける。此時取置たる人質おきく殿すぐに養子に信長卿より申請たりける。後織田七兵衛殿と申せしは、此人質なり。斯而木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門両人として江北中大名小名によらず、町人郷人によらず、まいないをし引出物などをいたし、侍には信長より本領安堵の御教書を取つかはしければ、国中の者共なびかぬものはなかりける。爰に米原太尾の城には中島宗左衛門尉楯籠りしが、磯野佐和山をあけのけば、己も太尾を開退き、小谷をさしてひきこもる佐和山より一里計西、浅妻といふ所に、新庄駿河守二百五十餘騎にて楯籠りしが、小谷へ注進申けるは、佐和山城磯野は信長卿へ開渡しければ、當城無勢にてかゝはりがたし。加勢を可レ被レ下と申越、其儘降人と成、信長卿の人数を引入る。斯而信長卿は近江へ至り、其間七八日の間二三不所の城、手に入れば當春の首途よしとて、佐和山の城には丹羽五郎左衛門に近辺五万貫の所領を相そへ、同廿六日に岐阜に帰城したまひける。其後沙汰して申けるは、今度は磯野を味方に可引入、ために発向したまひぬると聞えける。惣じて時日をうつす其間に、浅井が人持悉くみかたに引入べきとの手立とぞ聞えし。

 
 

浅井軍評定之事

浅井備前守長政、家老の者共を近付被申けるは、去年信長にだしぬかれ、中和せし事味方大につかれしゆへなれ共、是大にあやまりなり。しかりといへど信長を可レ討手立有。味方の人持共、小谷近辺一里二里の間、所々つまり/\に要害をかまへ入置、大坂顕如上人を頼、江北三郡の本願寺下坊主共に一揆を催させ、近所なれば堀が籠る本江の城を責さすべし。其時横山に籠る木下藤吉みつくべし。其透に當城より軍兵一二千も出し責べし。然者大形十に七八は責取べし。其時信長即時に馳来、虎御前か矢島野に本陣をすえらるべし。さあらんにおいては當城ひそかに持かため、打しづまつて寄る敵を待うくべし。其刻越前へ一左右して越前国中の軍兵を引率し、義景木之本辺へ出たまはゞ、信長勢を四方八方より出戦はゞ、勝利有べしと被レ申ければ、一座同音に尤よろしかるべしと決定す。それより越前へ使を立て、右の手立申入ければ、尤可レ然とて重而日限相究、使節は小谷へ帰りける。長政よろこび、いにしへより有所の小城に普請等を申付、人数分して籠られける。一番に国友の要害には野村兵庫頭、同肥後守を入をかる。宮部の要害には宮部世上坊を入をかる。月ヶ瀬の要害には月ヶ瀬播磨守子息若年なるにより、伯父若狭守楯籠る。山本のしろには阿閉淡路守、今村掃部頭(父は先年太尾うしろ巻の時討死す)、安養寺三郎左衛門、今井十兵衛(先年切腹せし十兵衛が子息)、熊谷忠兵衛(弥次郎が嫡子)彼等五人を籠をかる。賤ヶ岳の城には東野左馬之介、西野壱岐守、千田釆女、西山旦右衛門楯籠る。雲雀山の要害には浅見大学之介、八木與一左衛門楯籠る。小谷山の焼尾丸には浅見対馬守を籠をかる。小谷中の丸には浅井玄蕃亮、三田村左衛門大夫、大野木土佐守彼等三人をこめ置る。丁野山には中島宗左衛門尉ぞ籠りける。是は敵を包打に可討との手立とぞ聞えける。

 
 

浅井大坂顕如上人を頼一揆を催す事

去程に、浅井備前守長政大坂へ以2使札1被レ申けるは、我等領分北三郡の道場本へ被2仰付1、一揆を被レ催候はゞ、悉可存旨深く頼みて越れければ、顕如上人幸と思召。則顕如より御書をたまはりければ、長政よろこび事はかぎりなし。斯而越前と一揆と一図にしめ合せ可責とて、其日限をしめられ、長沢の福田寺へ彼顕如の御書を相渡す。それよりして三郡の一向坊主、我檀方共にふれければ、我も/\と進みたるしか、堀次郎が楯籠りたる本江の城を可レ責とて、箕浦の誓願寺四千二百人、先懸にて押寄、新庄の金光寺二千餘人、榎の乗願寺千五百人、上坂順慶寺五百余人、ゆすきむらの清動寺木之本新敬坊いまだ又右衛門の時、此人々都合八千七百余人後備へにひかへたり。尊照寺の称名寺二千餘人、唐川長照寺、増田真宗寺、此三人は三番にひかへたり。長沢の福田寺四千五百余人、坤村の福照寺三千二百余人は同勢なり。其日の軍奉行は浅井七郎、野村兵庫頭、中島日向守に仰付らる。元亀二年五月六日の未明に、堀が居城へ押寄、四方町屋を焼払ひ、我先にと責よせたり。城中にも四方より弓鉄炮を放ち、かくれども事ともせずおめきさけむで責かくる。秀吉は横山の城にいたまひしが、堀が住所と其間わづか一里余の事なれば、このよしを見て一揆は定て猛勢なるべし。一手立して敵を追払はんとて、内々用意やしたりけんかみのほりさし物など少々拵、日比なさけを懸置し百姓をやとひ越、其者共に申付、美濃海道筋の山の嶺に立置、我身は五百余騎にてふきぬきののぼりを立、福田寺陣取たる小屋山甲山へ取登る。斯而長政は越前よりの義景、出陣を待居けれ共、時刻もうつり行は、浅井玄蕃亮、赤尾新兵衛を侍大将として一千余騎横山の城へ押寄る。横山の城は無勢なれば、上を下へとかへしける。されども竹中半兵衛物なれたる兵なれば、走廻て下知をなす。浅井勢いさみにいさんで責入ば、城中は無勢なりはや惣構打破、二丸迄乗取、敵本丸さして付入に切入んとせしを、半兵衛取て返して追散す。浅井玄蕃亮一刻責にもめや者共と下知すれば、野一色介七と名乗かけ、加藤作内(後云遠江守)と渡し合せ、火花をちらしてたゝかひける。介七ふみ込で打太刀にて作内がひざの口をぞわつたりける。介七は首を取んとせし處に、苗木左介と名乗かけ、介七えたりとて左介をひきよせ、むずと組取ておさへ、首を取。此介七後には頼母之介と申ける。其後青野合戦に大垣面にて無比類働して討死をぞしたりける。かくて本江一揆の者共、秀吉加勢に来りたまうを、岐阜より信長進発にて先勢向ふとおもひ、気をうしなひ、福田寺が人数はや裏崩れしてにげぬれば、秀吉は五百計さつと懸入、四方八面に打破かけ通れば、一揆の者ども一さゝへもさゝへずして散々に敗北す。武者す武者奉行の浅井七郎敵は小勢成ぞ、かへせ/\と言れば、上坂の順慶寺にくい味方の者共の働かなとて、箕浦川を楯に取、しばしが間はさゝへしが、多良右近が郎等鎗を振て馳来る順慶寺と仕合しが、順慶寺がかたのはづれを一鎗突たりしが、物の數ともせず飛かゝり、おしならべてむずとくみ、上を下へと取てかへす。順慶寺組勝、頓て首を取立あがらんとせし所を、多良右近走かゝり、順慶寺を一鑓に突伏せ、首をかゝんとはしり寄、順慶寺ねながら腰の刀にて切ければ、多良は薄手なれば終に首をぞ取てんける。木之本藤田又右衛門は深いりして敵に取まかれしを、追払ひ/\二三度取てかへし、其をなんなく突抜、箕浦の辺にて息つき居たりしが、林甚之丞と名乗かけ、又右衛門に突かゝる。其時又右衛門持たる鑓を取なをし、しばらく戦ひけるが、甚之丞がたゞ中を突通し、田の中へはねたをす。かゝりける所に、香鳥介七と名乗又右衛門とむずとくみおさへて、首を討たりける。斯而秀吉はにぐる一揆を追打に四方へさつと追払ひ、横山さして引たまふ。扨横山寄手の者共は、敵不レ来先にもめやもの共すゝめや兵共と玄蕃身をもむて下知すれ共、城中の兵必死非生と思ひ切防ければ、すゝみかねてぞ居たりける。秀吉は一揆のやつはら思ふまゝに討取追散しかけぬけ、横山へ馳付給ふ。寄手の者共秀吉の後へまはり給ふを見て、勢を小谷へ引取ける。此時竹中粉骨をぬき働しゆへ、當城は落さるとて秀吉大によろこばれ、本江面にして討取たる一揆の耳鼻千八百信長へ進上せられしかば、頓而感悦に預り給ふ。秀吉其後近江の一向坊主にあひたまひて、我五百の勢にて一千八百討取たるとて御一代の御荒言とぞ聞えける。

 
 

浅井朝倉を呼出すに不レ出事 附信長卿江北へ押寄給ふ事

斯て浅井備前守長政は、去る夏越前と示合、一揆をもよをすといへども、義景事の子細有レ之出張せざるゆへ、味方の手立相違して立腹する事かぎりなし。かゝりける所に、又近日信長卿江北発向のよし注進すれば、越前へ使者を立、今度は是非出張せらるべき旨申遣しければ、早速可2打立1とかたく契諾す。それゆへ長政は其手あてをぞしたりける。かゝりし故、信長卿は分国の人数をかりもよほし、五万餘騎にて八月十六日に打立、同十八日には坂田郡横山に陣取給ひ、江北悉く焼払ひ、小谷をはだか城にすべきとて、先山本の城には阿閉淡路守、安養寺三郎左衛門、今村掃部、熊谷忠兵衛、今井十兵衛彼等五人楯籠りければ、此城と小谷の間をゝさへ置、放火せしむべきとて、柴田修理亮勝家、佐久間右衛門尉、市橋九郎左衛門などを宗徒の大将として四万余騎にて小谷と山本のあはひ二里計の間を人数にて立切、所々の要害共に手あて/\を申付上、海道筋會弥村馬渡迄焼払ひ、翌日横山へ引とらんとせし時、浅井備前守は同姓七郎、同玄蕃亮を侍大将として二千餘騎、小谷の城よりおしいだす。山本山の城よりも阿閉淡路守を初、所々の小城より討て出る。又江北所々の一揆共、我をとらじと催して出れば、信長卿も其日の殿ひ大事とやおもひ給ひけん。柴田修理亮に原田備中をいひそへ、弓鉄炮の者多く加勢被レ成、諸勢引取給ふとひとしく、浅井勢爰のつまり、かしこの山合へ人数を引つゝみ切てかゝれば、原田勢を一足もためす、追散す。浅井勢競ひをなし、息をもつかずたゝかへば、柴田が勢も敗北す。勝家是を見て味方をのゝしり、鑓を横たへ、二三度返し合せ敵を突、しりぞけ/\しけれ共、味方事共せず十四五町もしたひ行。備前守も雲雀山迄罷出、敵味方の様子を見居たまひけるが、味方深入してはあしかりなんとやおもはれけん。使番を以、はや引取れと下知すれば、玄蕃尤とこゝろへ、味方を引つれ小谷をさして引入れければ、山本勢も上道筋へ引にけり。此時柴田すでにあやうく見えけるが、味方はやく引取故なんなく信長卿の御本陣へ引付ける。もとより信長も殿ひ大事とや思ひたまひけん。三度迄使番を以被2仰付1けるが、其中に猪子兵介といふ者かけ引の體見はからひ様子申上る。其次第少もたがはずとて御感有けるとぞ聞えし。其夜は坂田郡が横山に陣取たまひ、翌日犬上郡が佐和山の城にうつらせ給ひ、近辺所々の残徒共の城取可2責取1手分被2仰付1、我身は佐和山に本陣をすえ給ふ。

 
 

世上坊逆心之事

斯て秀吉宮部の城に楯籠る世上坊が方へ申遣しけるは、汝は城にて本望をとげ給はむ事、九牛が一毛成べし。信長卿の幕下に成給はゞ、本領相違有べからず、行末よろしかるべしと申越れければ、世上坊同心して秀吉へ人質指遣し、頓而信長の味方に参。世上坊心に思ふやう御味方を申上るしるしに、近所国友の城野村肥後守、同兵庫頭に一矢射て、信長の御機嫌に可レ入とおもひ、手勢二百余騎にて国友面へ押出す。肥後兵庫は是を見て、己心替するのみならず、剰へ當城へ勢を寄るは、あますなもらすな討捕とて、三百余騎にて姉川をさつと打渡り、世上坊に切てかゝる。それよりして宮部勢と国友勢と追つおはれつ戦ふたり。国友勢つよくして宮部勢一二町引退く。世上坊取て返し、討死せんと切てかゝる。国友勢此競ひに追立られ、我先にと敗北して川中迄追入れける。かゝりける所に富岡藤太郎取てかへし、二つ玉の鉄炮にてねらひ打に打ければ、世上坊が高もゝを打ぬき、馬より下へどうと落る。富岡飛かゝり首を取んとせし所に、郎等の友田左近右衛門尉とつて返し、富岡を突しりぞけ、主の世上坊をかたにかけ、しりぞかんとせし所を国友勢追かくれば、世上坊いかに友田汝はしりぞけ、我は爰にて討死せん、二人うたれて何かせんと有ければ、主を捨る法や候とてかたにひつかけのきければ、それよりして敵味方あひ引に引にけり。

 
 

信長卿江北進発の事

斯而信長卿は、今度小谷面へ押寄敵を防ぎ置、虎御前山に向ひ、城を取立御勢を入置、小谷の士卒をつからせんと思召、元亀三年三月五日に二万余騎の勢を引率し、濃州岐阜を御立有。翌日六日に横山の城に着陣したまひて、柴田修理亮は山本の城をおさゆべし。佐久間右衛門尉、市橋九郎左衛門尉、丸毛兵庫頭等三人は小谷山と虎御前山との其間へ人数をわりこみ立置べし。木下藤吉郎は残る勢を引具し、虎御前山に要害をとり立べしと被レ仰付ける。信長卿の本陣は矢島野にすえさせたまふ。斯て佐久間右衛門佐、小谷面へわりこみ、備へを立んとせし時、備前守長政は居城間近く敵に足たまりを拵させてはかなふまじと思ひ、二千餘騎にて小谷面谷より打て出、佐久間が陣へ討手を揃へ、さしつめ/\射立ける。佐久間しばしが間はさゝへしが、小谷勢案内はよくしったり、爰かしこよりひらき合せて戦へば、佐久間も本陣へ引取、小谷勢跡を追てすゝみける。長政の其日の先手は、浅見対馬守なりけるが、深入して大勢につゝまれ、あしかりなんと思ひ、長政の本陣田川山へ引取ぬ。又西の方山本の城よりも、阿閉淡路守父子、安養寺三郎左衛門尉、熊谷忠兵衛一千余騎にて討て出る。国友の城よりも横鑓に突かゝれば、信長卿の勢防ぎかねてぞ見えにける。味方深入せしと人数さつと引取、己々が城中へ入にける。信長卿此由を見給ひて、御旗本を崩し田川迄押出し給へ共、浅井勢はや引取ければ、可2責入1手立もなくして人数横山迄引取たまふ。信長卿今度は何とか思案侍りけん。同十一日に横山の城を御立有。西近江志賀郡へ発向したまふ。かゝりける所に高島郡伊黒の城には、浅井方より新庄法泉坊を入置けるが、浅井に企2逆心1、信長卿へ忠節可レ仕旨申上。則人質を差上ければ、信長卿感被レ成。頓而安堵の御教書をぞくだされける。

 
 

高島伊黒の城責取事

去程に、伊黒の城主新庄法泉坊、信長卿へ味方して近辺の傍はい共を押寄/\責取乱入し、家財道具なんどをうばひ取けるが、梅津信濃守小谷に籠城して居たりけるに、己が一家の者其妻子等迄おかし押なびくるの旨、注進有ければ、不レ安思ひ、長政に右のむね申上ければ、長政聞たまひて、汝無念に思ふ段、左至極せり。しかりといへど海上をへだて人数を出すといひ、當城のふもと皆敵なり。いかゞ有べきと案じ煩ひたまふ。されども海津達て討手を望みける故、長政も又此法泉坊、忽にすて置なば、高島一郡をゝしなびけ、此方へもぜいを可レ出、急ぎ責とるべしとて、海津信濃守に浅見対馬守、山田順哲斎、赤尾與四郎、日根野弥次郎右衛門子息弥太郎を相添られ、其勢一千三百余騎、伊黒の城の討手として、同四月十四日に小谷を出したまへば、翌日海津に付、日根野本より軍法は得たり。一千三百を二手に作り、一手は城の後へまはし置、七百余騎にて城中を取まかんとせし時、法泉坊は是を見て、其勢雑兵八百計の勢を三百は城中に残しをき、五百の勢にて町面へ打て出る。味方七百余騎にて弓鉄炮を以て四方より射立打立しに、法泉坊も射立切立られ、我先にと敗北す。しかづし所に伊黒勢勝にのり、浅見が勢を追かくる跡に、日根野はひかへしが二百計鬨を作りかけ/\、面もふらず切てかゝる。法泉坊も火いづる程に戦ひけるに、後へ廻し、味方の勢ときを撞と作り、一度に塀際迄責寄れば、法泉坊かなはじとや思ひけん。城中さして引取べき所に、法泉坊が家老堀江伝左衛門と云しもの、よき時分にふみ留り、向ふ敵を追払ひ、門をかためてふせぎける。それよりして味方息をもつかず責たりけり。城中にも爰を先途と防ぎたゝかへば、日根野浅見に向て申けるは、此近所敵多し。其上信長も京都に居給ふべし。一刻に揉落すべし。先我等は責口の様子見るべしとて、裏手へ廻るとひとしく、進めや兵、のれや兵どもと下知をして、塀に手をかけ、日根野父子乗込ば、赤尾美作守が子息加兵衛、同新介(後改赤尾伊豆守)続てのりこめば、味方の兵五百計我おとらじとのりこむたり。城中の兵敵にまぎれて落るもあり、或はうたれて死るもあり。暫時に城は乗取ぬ。され共法泉坊は軍兵共の討るゝ透に、何く共なく落うせぬ。其時日根野弥太郎は敵數多きりふせ、其身も討死したりける。此日根野父子は美濃国斎藤右兵衛佐龍興が侍なりしが、龍興岐阜退散の時より、浅井が家に来りしなり。赤尾新介もてき二騎討とり、我身も深手負て、今をかぎりと臥居たりしが、郎等二人馳来り、かたに引懸退にけり。斯て浅井が兵共、大将の法泉坊は打みらせども、敵の首三百八十余討取は、味方も百七十もうたれにける。伊黒の城を破却して、海津信濃は残りけるは高島郡の仕置のためなり。扨小谷勢はさゞめき渡て帰陣して、長政に此むね申上れば悦ぶ事は限なし。

 
 

浅井三代記第十六終

 

(『改定史籍集覧』第六冊を底本としました。)
底本には濁点、句読点は無いが、読みやすくするために濁点、句読点を附した。


最新の画像もっと見る