城郭探訪

yamaziro

永原城(上永原城) 近江国(野洲)

2015年03月27日 | 居城

 

自動代替テキストはありません。祇王小学校の玄関前庭の「永原城碑」

祇王小学校正面

 お城のデータ

 所在地:野洲市(旧:野洲郡野洲町)上屋   map:http://yahoo.jp/jKWcAe

 別 称:上永原城

 区 分:平城 

 現 状:学校・畑地・宅地

 築城期:室町期~戦国期

 築城者:永原氏

 遺構等:石碑(祇王小学校の校庭) 発掘調査(堀・土塁)

 廃 城:貞享3年(1686)

 目標点:祇王小学校

 駐車場:永原第一団地集会所の駐車場に!

 訪城日:2013.12.14・2105.3.22

 お城の概要

 城址は祇王小学校一帯です。小学校敷地内の校庭に「永原城址」と刻まれた城址碑。2001年に二の丸跡が発掘調査されました。現在では住宅が建ち、遺構を見ることはできません

 

お城の歴史

 佐々木氏の支族の永原氏の永原城=居城(下屋敷)、詰め城は小堤城山(コツヅミシロヤマ)城。

  永原地域を本拠地とする在地領主が永原氏。14世紀末頃から史料上に名前が現れ、16世紀にかけて六角氏の配下として合戦や外交で活躍します。

  しかし、永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻直前より信長に通じていたようで、信長上洛後は信長の配下として所々の合戦に参加しています。この永原氏の居城が永原城です。

 永原城の位置については、かつては、徳川家康や二代将軍秀忠等が上洛時に宿泊した永原御殿跡を比定する考え方が支配的でした。

  しかし現在では永原御殿跡から南に約700m下がった場所に位置する上永原遺跡が永原城跡であると考えられており、上永原城と名付けられています。

上永原遺跡の所在地の小字名「与六郎」が、

『信長公記』巻十に「永原の佐久間与六郎所」と出てくる場所にあたると考えられることや、明治6年(1873)の地籍図でこの場所にコの字型の堀が描かれており、方形居館の存在をうかがわせることなどが根拠になっています。しかし、かつての堀は現在は祇王小学校の校庭になっており、痕跡すらうかがうことができません。

 永原氏は六角高賢を祖とし、馬淵氏の家臣で、もとは愛知郡にいたが、室町のはじめ頃、永原の地を本拠として野洲郡に勢力を張った。

 永禄11年(1568)永原氏は織田信長の近江進攻時に、観音寺城を落とされた六角氏と運命を共にして没落する。
 

その後、永原重賢の子等は織田信長の旗本となり、天正11年(1582)本能寺の変の後、羽柴秀吉と明智光秀が覇権をかけて戦った山崎の戦い(山崎合戦)では秀吉軍として戦うが討死する。

 江戸期になって将軍上洛の宿所として永原御殿が建てられたことにより、この永原城は貞享3年(1686)幕府の命により廃城となった。

  祇王小学校校庭 かつて土塁と堀の痕跡があった場所また平成14年(2002)度、祇王小学校の南西の土地を宅地造成するにあたり、発掘調査が行われました。伝二ノ丸跡とされるこの調査地からは13世紀にさかのぼる土塁と堀跡が検出され、中世の永原城がこの付近に位置するという推定がさらに確かなものとなりました。しかし残念ながら現在は住宅地となり、調査で検出された土塁・堀ともに見ることができません。

「従来・所謂永原城(永原御殿)が中世永原氏の居城とされていたが、永原御殿は形態から見て中世に遡るとは考え難く、また、上永原城の所在地の小字「与六郎」が、「信長公記」の「永原の佐久間与六郎(盛明)所」という記事と一致することなどから、織豊期までの「永原城」は、すべてこの上永原城であると考えられる。遺構はグラウンドとして残っていた本丸部分は小学校の移転により破壊され、その東の二の丸の一部が畑として残存している。地割り、目地から考えて更にその北にも地域が広がっていたことも考えられるが、ここは「里の内」という小字からすれば集落の旧位地であったかもしれない。」

発掘調査が実施された伝二ノ丸跡 現在は住宅地

永原城(上永原城)へはJR野洲駅から近江鉄道バス木部線または野洲篠原線に乗り、永原住宅前下車。停留所手前の永原の十字路を南へ約5分歩くと左手に祇王小学校が見えてきます。またはJR野洲駅から旧朝鮮人街道を東へ約30分ほど歩いて行くこともできます。

小学校の南東側道に、土塁・堀の一部カ?

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『野洲町発掘調査報告書』・『信長公記』遺跡ウォーカー

発掘調査の様子

http://www.geocities.jp/buntoyou/f7/sh-f0683kaminagahara.html    

      本日も訪問、ありがとうございました。


最新の画像もっと見る