城址説明板があった。
九里氏館跡
この付近一帯を九里村と称していました。明治初年の廃藩置県(誤記訂正)により金剛寺村と改称しました
「九里」という名称は古くから、(鎌倉時代)当地に住んでいた豪族で九里氏より付けられたと言われています
九里(くのり)氏は藤原氏の流れと伝えられ享徳二年(一四五二年)東大寺文書に記録では伊庭氏の又代官九里冶任の名が残っています
明応七年(一四九八年)金剛寺居館の佐々木六角の臣九之里三郎右衛門高雄が伊賀守形部少輔と名乗り岡山村牧の岡に移封されたが当地の館はそのまま所領となる
大永三年(一五二三年)牧の岡城にいた伊庭九里の両氏は佐々木氏反抗同年十二月二十日佐々木の居城である観音寺城に進まんとしたが城兵が黒橋に出て防ぎ両軍血戦の結果伊庭氏九里氏(九里三重朗)は戦死いたが九里村が残りました
常夜塔
現在地には伊勢参拝の要所として江戸時代に(天保十一年)常夜塔「角屋前」と称した燈籠が建てられましたが近年の交通事待により金剛寺町児童公園に移築されました
平成六年三且吉日 金剛寺町まちづくり委員会
金剛寺児童公園へ移築されたの常夜塔
お城のデータ
所在地:近江八幡市金剛寺町 map:http://yahoo.jp/V3iW3Y
別 名:本郷城
現 状:神社、集落
区 分:平城
遺 構:堀痕、土塁痕
築城者:九里冶任
築城期:室町期 享徳二年(一四五二年)東大寺文書に記録
城 主:九里高雄
目標地:旧金田公民館
駐車場:旧金田公民館無料駐車場
訪城日:2014.6.15、2014.9.3
お城の概要
九之里氏館跡「現地説明板」この付近一帯を九里村と称していました。明治初年の廃藩置県(誤記訂正)により金剛寺村と改称しました。
「九里」という名称は古くから、(鎌倉時代)当地に住んでいた豪族で九里氏より付けられたと言われています。
集落内は、新・旧住宅が混在し、近年住宅の建て替え激しく、また新規宅地造成が急増しています。
新規宅地造成や金田小学校の建て替えで、遺構の発掘調査「金剛寺・金剛寺城遺構」も済んでいます。
旧九里村に、九里氏の居城があった。西本郷に御屋敷の地名が残る。
歴 史
九之里氏館跡
この付近一帯を九里村と称していました。明治初年の廃藩置県(誤記訂正)により金剛寺村と改称しました
「九里」という名称は古くから、(鎌倉時代)当地に住んでいた豪族で九里氏より付けられたと言われています
九里氏は藤原氏の流れと伝えられ享徳二年(一四五二年)東大寺文書に記録では伊庭氏の又代官九里冶任の名が残っています
明応七年(一四九八年)金剛寺居館の佐々木六角の臣九之里三郎右衛門高雄が伊賀守形部少輔と名乗り岡山村牧の岡に移封されたが当地の館はそのまま所領となる
大永三年(一五二三年)牧の岡城にいた伊庭九里の両氏は佐々木氏反抗同年十二月二十日佐々木の居城である観音寺城に進まんとしたが城兵が黒橋に出て防ぎ両軍血戦の結果伊庭氏九里氏(九里三重朗)は戦死が九里村が残りました。「現地説明板より」
室町幕府と六角氏
その後、室町時代中頃の応永十五年(1408)に、歓雅が天台宗の寺院として芦原観音寺を中興しました。
現在の観音寺は、この歓雅を初代住持としています。享徳二年(1453)9月23日には、八代将軍足利義政が「普勧寺末寺」である観音寺の寺領を安堵しています。
観音寺の本寺とされる普勧寺は初め京都にありましたが、のちには芦浦に寺基を移し普勧寺の了忠が、観音寺の住持を兼任したと考えられます。
明応元年(1492)12月23日、南近江を支配していた六角氏の臣、九里氏の手兵300人が、観音寺を襲撃し財物を略奪する事件が起こりました。
前年に、十代将軍足利義稙(よしたね)が派遣した六角征討軍に、了忠が観音寺を陣所として提供したことに対する報復だったようてす。
遺構の残存しそうな竹藪(民家に囲われて近寄れません)
旧館の鬼瓦(当主が大切に保存)本郷神社の北隣宅
本郷神社
由緒
この地は大化の改新以前より存し、当時には「九里(くのり)」と呼ばれ若宮神社を奉祀していたが、天明五年日本武尊を他所より奉遷したのを創立とする。
旧金田公民科に駐車
金剛寺町児童公園・若宮神社周辺の写真
移設された常夜灯
大将軍神社
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江八幡の城
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!