城郭探訪

yamaziro

大野木館     近江国(山東)

2016年05月05日 | 居館

 浅井氏の重臣の大野木土佐守の居館

http://yahoo.jp/wCsX1U

大野木集落の南、新幹線で遮断された、南沿いに城址碑がある。

お城データ

所在地:米原市((旧:坂田郡山東町)大野木  map:http://yahoo.jp/ZUuxgY

現 状:田畑・宅地・社地境内

区 分:居館

築城期:鎌倉期?

築城者:大野木氏

遺 構:空堀・土塁・城跡碑

目標地:大野木公民館・八相宮

駐車場:大野木公民館

訪城日:2016.5.4

お城の概要

 大野木集落の南新幹線で遮断された、南沿いに城址碑がある。

大野木集落にある八相宮のあたりまで居館があったと思われ、八相宮裏手に土塁・空堀が残る。

東側の大峰山の尾根上に大峰砦があり、千畳敷、左手NTTの鉄塔辺りが北砦のようだ。

周辺マップは公民館に設置してある。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 大野木住 佐々木浅井旗頭筆頭後上坂へ所替 大野木土佐守」の名を記す。

 『浅井三代記』(16) 第十六(全文) 本文 備考 朝倉浅井堅田寺内を取返す事 附坂井右近 討死の事 斯而堅田の地下人一統して信長卿の勢を引入、浅井 ... 小谷中の丸には浅井 玄蕃亮、三田村左衛門大夫、大野木土佐守彼等三人をこめ置る。・・・云々

浅井氏の重臣の大野木氏の居館。小谷城の清水谷には土佐屋敷として大野木氏の屋敷が残る。


八相宮

          

八相宮の本殿にの裏北東部に空堀・土塁が残る。

      

八相宮の東は堀痕か?

    

元大野木学校跡に大野木公民館

  

 

案内図 東側の大峰山の尾根上に大峰砦・千畳敷・左手NTTの鉄塔辺りが北砦のようだ。

大野木氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 大野木氏(おおのぎし)は、佐々木高綱を祖とする佐々木氏分流。転じて大八木氏(おおやぎ)と称して江戸幕府奥医師や柳河藩医や高松藩士になった家もある。

概要

佐々木高綱の子孫で近江国坂田郡大野木城(現在の滋賀県米原市山東町 )に住して大野木(おおやぎ)氏を称したとする。

「乃木大将事蹟」の系図では野木氏の祖である野木光綱の弟の高重(二郎兵衛尉、大野木庄左衛門尉)を大野木氏の祖としている。また柳河藩士の大八木氏系図では大野木氏は高綱の二男である次郎左衛門高行の子孫としている。

戦国時代の浅井氏家臣に大野木秀俊(土佐守)がいる。

大八木氏

大野木氏の中に大八木氏に改姓した家がある。柳河藩士の大八木氏系図では高綱の二男である次郎左衛門高行の16代孫の高澄(加賀守)が近江国坂田郡大野木郷に住して大野木氏を称し、後に大八木氏と改姓したとする。

 高澄の子・永広(小兵衛)は細川忠興に預けられて後に山城国嵯峨に住し、永広の子である玄忠が医者となり、その子孫が江戸幕府の奥医者や柳河藩医、高松藩士になったとする。

また、寛政重修諸家譜では大野木高盛(加賀守)が三代の子孫である秀盛(新右衛門)が剃髪して玄忠と称して医者となり、その4代目の大八木高豊(伝庵)が正徳元年(1711)に幕府奥医師になったとしている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、Wikipedia、佐々木南北諸氏帳、浅井三代記、淡海の城

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