探訪【谷城最後の数日を追体験する~水の手道から京極丸へ~】
正元年(1573 年)8 月27 日夜、信長軍の先鋒木下藤吉郎(秀吉)は、水の手道から京極丸に取り上り、まずは小丸に楯籠もる久政を切腹させました。ついで翌日、今度は信長自身が京極丸に取り上り、本丸に楯籠もる長政を攻め立て、9 月1 日に至ってついに赤尾美作守とともに長政を自害させました。これをもって、北近江に三代の繁栄をほこった浅井氏は滅亡したのです。
今回の探訪では、小谷城を熟知した地元ガイドとともに、今やほとんど忘れ去られた水の手道から京極丸に取り上り、小谷城最後の数日を追体験します
JR河毛駅前に!
本日の探訪ルート
出発式・・・50名・スタッフ15名
スタート前に、小生のリードでストレッチ(ウォーミングアップ)をしっかりやって!
清水谷へ
~水の手道から京極丸へ~
獣道のような急斜面を
福寿丸・山崎丸・大嶽(おおづく)城が!北側に
石積が、初めて!
こんな、急坂・獣道・・
・・・一度、滑落しそうになり(枯葉や砂利で滑り)、後のメンバーやスタッフの助っ人で無事コースに戻れました。
【通行禁止】の看板に登り付きました。
京極丸の清水谷側枡形門の石垣
本丸(鐘丸)背後大堀切
小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事
8月27日夜、羽柴秀吉は小谷城京極丸【注①】を攻略して浅井久政・長政父子を分断し、その上で父久政の籠る小谷城小丸を攻め取った。
これにより浅井久政は切腹して果てた。久政の介錯をつとめたのは日頃久政から目をかけられていた鶴松大夫という舞の名手であったが、この鶴松大夫も久政介錯ののち追腹を切って死んだ。この死により、鶴松大夫は後世に名誉を残した。
久政の首は羽柴秀吉の手に渡り、虎御前山の本陣に運ばれて信長公の実検を受けた。
翌日、信長公はみずから兵を指揮して京極丸へ攻め上がり、最期の抵抗をつづける浅井長政・赤尾美作守を9月1日、死に追い込んだ。
小谷城は陥ちた。
落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。
元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。
9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。
【注①】浅井長政の守る本丸と久政の守る小丸との間に位置する曲輪
遠望に横山城・姉川合戦場
虎御前山砦・山本山城・竹生島!
虎御前山」砦
虎ヶ谷道に下りてきました
本日の歩数12,420歩 歩行距離9.1km 歩行時間2時間13分
消費カロリー338.9cal 脂肪燃焼48.9g
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。