城郭探訪

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講座 1/3【小谷落城と浅井長政の決断】

2013年08月05日 | 歴史講座・フォーラム

探訪 【小谷城の最後の数日を追体験する~水の手道から京極丸へ~】2013.8.3

正元年(1573 年)8 月27 日夜、信長軍の先鋒木下藤吉郎(秀吉)は、水の手道から京極丸に取り上り、まずは小丸に楯籠もる久政を切腹させました。ついで翌日、今度は信長自身が京極丸に取り上り、本丸に楯籠もる長政を攻め立て、9 月1 日に至ってついに赤尾美作守とともに長政を自害させました。これをもって、北近江に三代の繁栄をほこった浅井氏は滅亡したのです。
 今回の探訪では、小谷城を熟知した地元ガイドとともに、今やほとんど忘れ去られた水の手道から京極丸に取り上り、小谷城最後の数日を追体験します

講師:北村圭弘氏 レジュメ

参考文献:信長公記

金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

 25日、信長公は越前の地へ足を踏み入れた。敦賀まで進んだ信長公は馬を懸け回して付近の地勢を検分し、手筒山城①を標的に定めるとすぐさま旗下の将士に攻撃を命じた。手筒山は金ヶ崎南東に屏風のごとくそびえ立つ高山であったが、将士たちは信長公の命が下るや一命を顧みずに坂を駆けのぼり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を陥れた。
 手筒山に近接する金ヶ崎城②には朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
 つづいて疋田城③も開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。ここまではまさに破竹の勢いであった。

 しかしそこから木目峠を越え、あすには越前国内へなだれ込もうというとき、軍中に最悪の飛報が届いた。江北の浅井備前守長政が掌を返し、敵方についたという報であった。
 信長公ははじめこの情報を信じなかった。浅井は歴とした織田家の縁者であり、さらには江北一円を申し付けてもいる。不足のあろうはずがなく、虚説に違いなし、というのである。しかし信長公のもとへはその後も諸方から続々と同様の注進が届き、もはや浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
 運命は、突如として変転した。信長公はただ一言、是非に及ばず」と、つぶやいた。
 4月28日、信長公は撤退を開始した。

木下藤吉郎を殿軍として金ヶ崎の城に残し、みずからは駆けに駆けて30日には近江に出、地元の豪族朽木信濃守元綱の先導で朽木越え④をして京都への撤退に成功した。両名は5月6日針畑越えの道をとって京へ戻り、信長公へ復命した。
 このとき稲葉一鉄親子と斎藤内蔵助利三は江州守山に駐屯し、近江路の警固にあたっていた。そこへ一揆がむらがり起こってへそ村⑥に火の手をあげ、守山にも焼き討ちをしかけてきた。しかし稲葉は町の諸口を支えて逆に敵を追い崩し、数多の敵を討ち取った。比類なき働きであった。

 岐阜へ下っていった。途中志賀⑦・宇佐山⑧の城に森可成を残し、12日⑨に永原まで出てこの地に佐久間信盛を置き、長光寺⑩には柴田勝家を入れた。安土にも中川八郎右衛門が残された。かくのごとく城塞ごとに兵が入り、近江回廊は厳戒態勢がしかれた。

 ①現福井県敦賀市内 ②現敦賀市金ヶ崎町 ③現敦賀市疋田 ④現滋賀県朽木村から京都北郊に出る道 ⑤武藤友益は若狭の将で、織田勢の若狭侵入に対抗していた。 ⑦⑧現大津市内 ⑨正しくは13日 ⑩現近江八幡市長光寺町

 

遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事

 5月19日、浅井長政は鯰江城①に軍勢を入れ、同時に市原②に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑③の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え④に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離⑤まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

 ①現滋賀県愛東村 ②現永源寺町市原野 ③現永源寺町甲津畑 ④前出。近江から伊勢へ抜ける経路。 ⑤約22~24mほど

死地へ  たけくらべかりやす取出の事

 越前朝倉氏の後援を得た浅井長政は、長比①・苅安②の地に要害を構えていた。この両砦に対し信長公は地元の豪族堀秀村と樋口直房を調略し、かれらに内応を約させることで砦の無力化をはかった。そうして6月19日、信長公は浅井氏を討つべく大兵を率いて岐阜を発ち、手始めとして長比・苅安両砦の攻略に向かった。しかし織田勢の来攻と堀の謀叛を知った城兵はたちどころに士気を萎えさせ、取るものも取り敢えず退散してしまった。信長公は難なく長比に入り、この地に二日間滞在した。

 6月21日、長比を出た信長公は浅井の本拠小谷まで攻め寄せた。織田勢のうち森可成・坂井政尚・斎藤新五・市橋長利・佐藤六左衛門・塚本小大膳・不破光治・丸毛長照は雲雀山③へのぼり、山麓の町を焼き払った。信長公はその他の諸勢を引き連れて虎御前山④に陣を据え、柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下藤吉郎・丹羽長秀および江州衆に命じて近在の諸所へ余すところなく火を放たせた。

 翌22日、小谷を前に信長公は一旦兵を後退させることを決意し⑤、殿軍に鉄砲五百挺と弓衆三十余りを据え、簗田左衛門太郎広正・中条将監・佐々成政の三名を奉行として指揮を命じた。

 すると、総軍の後退に気づいた敵足軽が攻め寄せてきた。殿軍のうち簗田広正は中軍より少し左手を後退していたが、肉薄してきた敵勢を引きつけて応戦し、散々に打ち合った。このとき簗田勢の太田孫左衛門は敵首を挙げて引き揚げ、信長公より多大な褒賞にあずかった。また佐々成政は八相山⑥の矢合神社前で敵に捕捉されたが、これも見事な武功を挙げて無事撤収に成功した。
 さらに中条将監は八相山下の橋上で敵と衝突したが、将監は敵勢の攻撃により負傷してしまった。また中条又兵衛も橋上で敵ともみ合いになり、双方とも橋から落ちた。しかし又兵衛はひるまず、橋の下でさらに戦ったのち見事その敵の首を挙げた。比類なき高名であった。信長公はこれら後衛の奮戦によって無事後退することができ、その日は八島に陣を取った。

 小谷城に近接する横山城⑦には高坂・三田村および野村肥後の勢が籠っていた。24日になって織田勢はこの城に取り寄せて城を四方より囲んだ。そして信長公自身は竜が鼻⑧に陣を取り、小谷を見据えた。

 ①現滋賀県米原市山東町内。「たけくらべ」と読む ②現米原市伊吹町内 ③現長浜湖北町伊部、小谷城南 ④現湖北町虎姫山 ⑤戦線整理または浅井勢を誘導して野戦に持ち込むため ⑥虎御前山南の中野山 ⑦現長浜市石田町内。交通の要衝 ⑧現長浜市内

姉川  あね川合戦の事

 そのような中、越前より朝倉孫三郎景健率いる八千の援軍が到着し、小谷城の城東に位置する大依山①に陣を張った。待ちわびた援兵の来着を知った浅井長政は、城を出て朝倉勢との合流を果たした。
 朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、6月27日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。陣を捨てて退却するものとも考えられたが、事実は相違した。出撃のための陣払いであった。

 28日未明、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田村の郷に移り、二手に分かれて軍勢を立て備えた。これに対し織田・徳川連合軍②は、西の三田村口に位置した朝倉勢には徳川家康が向かい、東の野村口に展開した浅井勢には信長公直率の将士と美濃三人衆が相対した。
 卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。敵勢も姉川を越えて突撃し、ここに姉川合戦の火蓋が切られた。戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦となり、戦場には黒煙と土埃が巻き立ち、鍔が割れ槍が交差する音がこだました。そして後世に語り継がれるであろう数々の武功が生まれ、そのたびに名のある武者が命を落としていった。

 数刻にわたる激闘は、最後に織田・徳川軍が浅井勢を追い崩して終わった③。浅井勢は青木所右衛門に討ち取られた真柄十郎左衛門や竹中久作に討ち取られた遠藤喜右衛門をはじめ、前波新八・黒坂備中・浅井雅楽助ら他国まで名の聞こえた将の多くを失った。この戦で織田勢が討ち取った首の数は、面立ったものだけでも千百余にのぼった。

 織田勢は退却してゆく浅井勢を追撃して小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放った。しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、横山城の攻囲にまわった。横山城はひとたまりもなく開城した。
 信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。

 7月6日④、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、8日に岐阜へ帰還を果たした。

 ①現滋賀県浅井町内 ②徳川家康は24日に来援して織田軍と合流 ③合戦の内容については、織田勢が劣勢だったためか『信長公記』はあまり詳しく触れていない。 ④正しくは7月4日

志賀の陣  志賀御陣の事

 9月16日、越前朝倉氏と浅井長政の連合軍約三万が近江を南下し、坂本口①へ押し寄せてきた。この報に接した宇佐山城将の森可成は軍勢を率いて宇佐山の坂を駆け下り、坂本の町はずれで敵と接触した。双方足軽を出しての小戦闘になったが、森勢は敵首少々を得て勝利を収めた。
 しかし大勢は動かず、19日②になって陣立てを終えた朝倉・浅井勢は二手に分かれて再び坂本口へ殺到した。森勢は町を破らせまいとして坂本の町口で敵を支えたが、二手より攻め寄せた敵の大軍の挟撃を受けて重囲に陥ってしまった。それでも森勢は勇を奮って戦い、敵味方火花を散らしての激戦となった。しかし敵の猛勢の前に森勢もついに崩れ立ち、森可成・織田九郎信治・青地茂綱・尾藤源内・尾藤又八以下多くの将領が討死した。

 このとき森勢の中に、尾張国守山の住人で道家清十郎・助十郎という名の兄弟がいた。先年武田勢が東美濃高野口③へ侵入した際、森可成は肥田玄蕃とともに先陣に立って防戦につとめたが、この時の戦闘で兄弟は二人で三つの敵首を挙げた。これを聞いた信長公は大いに喜び、兄弟が指していた白の指物を召し寄せ、それへ「天下一の勇士なり」と直筆して与えた。侍としてこれに過ぎた栄誉はなく、兄弟は名誉の仁とうらやまれた。今度の戦でも兄弟はその指物を背に立てて戦場に立ち、森可成とともに勇戦して討死を遂げた。

 森勢を打ち砕いた浅井・朝倉勢は余勢を駆って宇佐山まで攻め上り、出城へ火を放ったが、城内に残っていた武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門の奮闘により城はなんとか持ちこたえた。しかし翌20日、敵は大津に出て馬場・松本へ放火し、21日には逢坂を越えて醍醐・山科を焼き払った。

 敵軍は、すでに都の目と鼻の先までせまっていた。22日、その事実は摂津国中島の陣所へもたらされた。
 注進を聞いた信長公は、敵を都へ入れては元も子もなしと考え、23日和田惟政・柴田勝家の両人を殿に残して野田・福島の陣所を引き払った。そしてみずからは中島に出て江口の渡し④へ向かった。

 江口川は宇治川・淀川の支流で、水量は多く、水勢もすさまじい有様で、昔から舟で渡るのが普通であった。この地まで猛烈な勢いで行軍してきた織田勢であったが、ここにはすでに一揆が蜂起しており、渡河のための船は彼らによってことごとく隠されてしまっていた。その上で一揆勢は、竹槍を手に対岸の大坂堤添いへ稲麻竹葦のごとくむらがり、対岸の織田勢へ向かって口々に嬌声を投げかけてきた。
 ここで信長公は、みずから馬を駆けまわして川の流れを調べた。そして河中へざぶりと馬を打ち入れると、軍勢へ向かい「渡るべし」と下知した。
 命令一下、織田勢は一斉に川へ入った。すると水深は思いのほか浅く、雑兵たちも徒歩でらくらくと渡河することができた。信長公は同日のうちに公方様に供奉して帰洛を果たした。ところがこの翌日から江口の渡しは急に水深が増し、徒歩での渡河は困難になってしまった。江口近辺の者達は、ふしぎなることよと皆ささやき合った。

 9月24日、信長公は上京本能寺を立ち、逢坂を越えて越前衆の攻撃に向かった。しかし下坂本に布陣していた越前勢は、信長公の旗印を見るやたちまち敗軍の体を見せて比叡山へ逃げ上がってしまった。山へ上がった越前勢は、蜂が峰・青山・局笠山⑤に陣を取った。
 このとき信長公は延暦寺の僧十人ばかりを呼び寄せ、「信長に味方するならば、分国中の山門領を元通りに還付する」と金打⑥して約束し、かさねて「出家の道理により片方への贔屓なりがたし、と申すならば、せめて敵味方とも見除せよ」といって説得し、その旨を稲葉一鉄に申し付けて朱印状にしたためさせた。その上で信長公は、「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告した。しかし山門の僧衆はこの勧告を聞き入れず、情勢を見て浅井・朝倉に味方し、魚・鳥・女人を山に上げて悪逆をほしいままにした。

 信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太⑦にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。
 田中⑧には柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣し、唐崎⑨の砦にも佐治八郎・津田太郎左衛門が入った。そして信長公自身は志賀の宇佐山城に陣を取った。
 叡山西麓の将軍地蔵山⑩の古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵二千余りが布陣した。また八瀬・大原口⑪には山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。

 10月20日、信長公は朝倉勢へ菅谷長頼を使者に遣わし、「いらざる時を費やすをやめ、一戦をもって勝敗を決さん。日時を定めて出で候え」と申し述べさせた。しかし朝倉勢からの返答はなかった。そののち朝倉勢は交戦を中止して講和を申し入れてきたが、信長公は是が非にも決戦して鬱憤を散らすべしとして、これを蹴った⑫。

 信長公が叡山に釘付けとなっている間、三好三人衆は野田・福島の砦を補修し、諸牢人を集めて河内・摂津の各地で示威行動をとった。しかし高屋城の畠山殿・若江城の三好義継・交野の安見右近および伊丹・塩河・茨木・高槻の各城がいずれも堅固に構え、和田惟政率いる畿内衆も各地に陣所を構えて守備を固めていたため、京方面へ進むことはできなかった。

 江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城菩提寺城⑬まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。
 木下藤吉郎と丹羽長秀の両名は、江南の各地を転戦してこれらの騒擾を鎮めた。そして小谷城付城の横山城と佐和山城付砦の百々屋敷に十分な守備兵を残し、みずからは志賀へ参陣すべく西上した。途中の建部⑭には一揆勢が砦を構え、近隣の箕作山・観音寺山と連携して通路を塞いでいたが、両人は一戦してこれを蹴散らし、難なくまかり通った。
 木下・丹羽勢は志賀へ到着し、瀬田へ入った。これを志賀の城から遠望した信長公は、瀬田城の山岡景隆が六角勢を引き入れて謀叛したものかと疑ったが、飛脚の報によって藤吉郎・五郎左衛門が参陣したものとわかり、不審を解いて大いに機嫌を良くした。これにより在陣諸兵の士気も上がった。11月16日、信長公は丹羽長秀に命じて鉄綱をもって瀬田に舟橋を架けさせ、村井新四郎・埴原新右衛門に警固させて人馬の往還を助けた。

 このころ尾張では、信長公の御舎弟彦七信興殿が小木江⑮に城を構えて居城としていた。そこへ信長公が志賀で手詰まりとなっている様子を見た一揆勢が長島で蜂起し、小木江にも押し寄せてきた。一揆勢の攻撃は日を追って激しくなり、21日ついに城内へも突入してきた。これを見た信興殿は、一揆勢の手にかかって果てては無念と思い、天守櫓へのぼって腹を召された。是非なき次第であった。

 11月22日、六角承禎との和睦が成立して三雲・三上氏が志賀へ出仕し、上下ともひとまず胸をなでおろした。また25日には堅田⑯の猪飼野甚介・馬場孫次郎・居初又次郎の三名が織田方へ内通を申し合わせ、坂井政尚・安藤右衛門・桑原平兵衛へその旨を打診してきた。坂井らは信長公の許しを得て猪飼野らから人質を受取り、夜のうちに人数千ばかりを率いて堅田へ入った。しかし堅田が織田勢の手に渡ることを嫌った越前勢はまもなくして大軍をもって堅田へ返し、多勢にものを言わせて諸口から攻め寄せてきた。
 重囲の中にあって織田勢は奮戦し、前波藤右衛門や義景右筆の中村木工丞らを討ち取る活躍を見せた。しかし敵の大軍の前にあるいは負傷し、あるいは討死して次第にその数を減じ、ついに敗軍した。乱軍の中坂井政尚と浦野源八親子は一騎当千の働きを見せ、比類なき高名をあげたのち見事討死を遂げた。

 季節は、すでに冬にさしかかっていた。
寒天と降雪で北国への通路は閉ざされようとしていた。そのため朝倉勢は公方様へ言上し、織田勢との休戦を申し入れてきた。信長公ははじめ休戦に応じようとしなかったが、30日に三井寺に入った公方様から重ねて休戦の上意があったため、信長公もこれを無視しがたくついに休戦に同意した⑰。

 12月13日、織田と浅井・朝倉との間に講和が成立し、織田勢は湖水を越えて瀬田まで退き、なおかつ浅井・朝倉勢が高島郡に到着するまで人質を出して行路の安全を保証することが決まった。翌14日、信長公はこの約定に従い瀬田の山岡景隆居城まで軍勢を退かせた。これを見た敵勢も15日早朝から叡山を降り、北国へ引き上げていった。
しかしながら、この戦はまことに前代未聞の栄誉ある一戦であった。信長公は大雪の中を行軍して16日に佐和山山麓の磯の郷⑱へ宿陣し、翌12月17日久方ぶりに岐阜へ帰陣した。

 ①現滋賀県大津市の下坂本 ②正しくは20日 ③現岐阜県瑞浪市内 ④現大阪市東淀川区内 ⑤いずれも叡山の諸峰 ⑥刀の鍔を打ち鳴らすこと ⑦現大津市坂本穴太町 ⑧⑨いずれも現下坂本町内 ⑩現京都市左京区の瓜生山 ⑪現京都市の八瀬と大原 ⑫朝倉側が講和を申し入れたとは考えにくく、この記述には疑問がもたれている。 ⑬現滋賀県石部町 ⑭現八日市市内 ⑮現愛知県弥富町 ⑯現大津市本堅田町 ⑰実際には、信長から朝廷・将軍へ講和をはたらきかけた。 ⑱現滋賀県米原町

 

この年の正月、信長公は濃州岐阜にあって諸将の参賀を受けた。

佐和山降る  佐和山城渡し進上の事

 2月24日、佐和山城に籠っていた磯野員昌が降伏し、城を明け渡して高島郡へ退去した。後には城代として丹羽長秀が入れ置かれた。

信長公は江北へ出馬し、18日横山に陣を取った。なおこの在陣中の20日夜横山に大風が吹き、城の塀櫓を吹き落としてしまった。

 小谷城とその西に位置する要所山本山④との間は五十町ほどの距離があり、その中ほどに中島という郷があった。26日信長公はここに一夜陣を据え、そこから与語⑤・木本⑥方面に足軽を放って各所を放火してまわらせた。そして27日になって横山へ軍勢を返した。
 その翌日の28日、信長公は佐和山に出て丹羽長秀の在所に宿泊した。そのころ織田勢の先手は、一向一揆が立てこもる小川村・志村の郷⑦を囲んで近在を焼き払っていた。

  ④現滋賀県湖北町と高月町の境に位置する山 ⑤⑥それぞれ現余呉村・木之本町 ⑦ともに現能登川町内

六天魔王  叡山御退治の事

 元亀2年9月12日。
この日、織田勢は近江国比叡山の山麓にひしめいていた。

 先年織田勢が野田・福島を攻囲して落城寸前にまで追い詰めたとき、朝倉・浅井勢が近江を南下して坂本口へ襲いかかった。この軍事行動に対し、信長公は都へ敵の乱入を許しては一大事と考え、野田・福島の陣を払って東へ急行した。そして逢坂を越えて越北衆に懸け向かい、これを局笠山に追い上げて干し殺しにしようとした。このとき信長公は自陣に山門の衆徒を召し出し、織田勢への協力を求め、味方した際には分国中の山門領を元のごとく還付する旨を金打と朱印状をもってかたく誓約した。さらに出家の道理により一方への贔屓がなしがたい場合にはせめて中立を保つよう、事をわけて説得した。その上でもしこれに違背して朝倉・浅井に肩入れした場合には、根本中堂・山王二十一社ことごとく焼き払うと宣告していた。

 それから一年が経ち、その時が到来したのである。この頃、山門山下の僧衆は王城鎮守の重責を負いながら修行を怠り、天下の嘲弄を恥じず、天道を恐れず、淫乱と肉食をほしいままにしていた。あまつさえ先年は金銀に目をくらませて浅井・朝倉に味方し、暴慢なるはたらきさえした。
 信長公は彼らに対するに、まず容赦をくわえて見逃した。しかし彼らは改めなかった。そこで信長公は、このたび残念ながらも聖域に馬を打ち入れることを決めたのである。

 信長公は心中にこもる彼らへの憤りを散じようと、軍勢を山にのぼらせて根本中堂・山王二十一社をはじめ霊仏・霊社・経巻のことごとく、一宇も残すところなく焼き払わせた。これにより叡山は一日にして灰燼の地と化してしまった。一方山下では老若男女が徒歩はだしで逃げまどい、取る物も取り敢えず八王寺山にのぼり、日吉大社奥宮の社内に逃げこんだ。しかし織田勢はこれを逃さず、四方より鬨の声をあげながら社内になだれ込んでこれを殺戮した。

 鎮護国家の大道場は、叫喚のるつぼと化した。織田勢は僧俗・児童・智者・上人の別を問わずことごとく首をはね、信長公の御前に差し出した。また山上では名僧・貴僧の呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、御前に引き出されてきた。かれらは口々に「悪僧を誅伐なさるにおいては是非もなし。しかしわれらは助け候え」と哀願したが、信長公は聞き入れず、彼らはすべて首を打ち落とされた。まことに目も当てられぬありさまであった。

 焼き討ちは完遂され、信長公は胸中のしこりをとりはらった。

信長公の怒りに触れた比叡山の山麓には数千の屍が散らばり、この世のものとも思えぬ情景が広がっていた。哀れなことであった①。
 焼き討ちののち志賀郡は明智光秀に与えられ、坂本に城が築かれた。

 9月20日、信長公は岐阜に帰陣した。そして翌21日、河尻秀隆と丹羽長秀に命じて佐和山城に高宮右京亮の一党をおびき出し、これを誅殺させた。高宮党は危険を察知して切って出たが、別段の支障なく成敗されてしまった。高宮は先年の野田・福島陣のおり、大坂方に内通して一揆を扇動し、自身も天満の森の陣地を出て大坂に駆け入っていた。そのため今回誅戮の憂き目にあったのである。

 ①焼き討ちの事実は当時の公家の日記等にも大きく記されているが、近年になって山上の建物は焼き討ちされなかったのではないかとする見解も出されている。

  次日には阿閉淡路守の籠る山本山城へ木下藤吉郎が遣わされ、山麓へ放火をはたらいた。すると城内から百余りの足軽が討って出、放火を阻止しようとしてきた。藤吉郎はあわてず、頃合を見計らって敵勢へ一斉に切りかかり、打ち崩して五十余の首を挙げた。これにより藤吉郎は信長公から多大な褒賞を受けた。
翌23日は与呉・木本にも兵を遣わし、地蔵坊①をはじめ堂塔伽藍・名所旧跡にいたるまで一切を余さず焼き払った。
 また翌24日には草野の谷②へ放火した。この草野近くの高山の上には大吉寺という五十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立てこもっていた。信長公はこれを攻略しようとし、日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を襲わせた。そして夜になってから木下藤吉郎勢・丹羽長秀勢を後方に迂回させ、背後の山づたいに寺へ攻め上らせた。山頂に上がった織田勢は、一揆・僧俗数多を切り捨てた。

 

講座 2/3【小谷落城と浅井長政の決断】  へ続く


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