城郭探訪

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探訪 【尼子城 (尼子氏)】・・・・佐々木京極氏の支流として出雲尼子氏で発祥。

2012年11月09日 | 平城

・尼子氏発祥の地を走る近江鉄道の「尼子駅」

尼子は普通”あまご”と読む。

アマコの呼称は雨か海か天に関係があると思われ、余部(余戸)の里という説もある。

出雲の戦国大名尼子氏は、近江北六郡の守護佐々木京極氏の一族で、京極高秀の子高久が近江国犬上郡尼子郷に住んで尼子を名乗ったことに始まる。高久の子持久が出雲の守護代として任国出雲に赴いたのが、出雲尼子氏の始まりである。

●尼子氏の発祥

 近江佐々木氏は宇多源氏・近江源氏と称され、鎌倉幕府創業に功があり各地に守護・地頭職を得ておおいに勢力を拡大した。嫡流は六角氏と京極氏に分かれ、六角氏が江南六郡を領し、京極氏が江北六郡を領して互いに勢力を競い合った。京極氏で有名なのが足利尊氏に仕えた高氏(道誉)で、南北朝時代の典型的守護大名でそのバサラぶりは世に知られたところである。
道誉は康安四年(1345)四月、戦功の賞として足利尊氏から犬上郡甲良荘を与えられた。この甲良荘のうちに尼子郷があり、この地を孫の高久(秀久)に与えるように置文を遺した。この置文は道誉の後家尼留阿や惣領によって守られ、尼子郷は応永五年(1398)六月高久に給与された。高久はこの地に住し、在地名をとって尼子氏を称した。これが、佐々木氏流「尼子」の名字の発祥である。

 犬上郡尼子は、尼子氏は佐々木京極氏の系流であり、先祖は京極五代高氏(道誉)の嫡子高秀の四男・高久が、犬上郡尼子を本拠として尼子を姓とした。

佐々木道誉(1296~1373)勝楽寺蔵

 

尼子氏は京極高秀の子高久が犬上郡甲良荘尼子郷を与えられて尼子氏を名乗った事に始まる。

所在地:滋賀県犬上郡甲良町尼子

 

 昔、松宮大明神(まつみやだいみょうじん)と呼ばれましたが、明治5年(1872)に現在の神社名に改称しました。兵火で記録などが焼失し、いつごろの開基かはっきりわからりませんが、拝殿棟鬼板(とうきばん)や神輿(みこし)に佐々木神社の神紋(しんもん)と同じ四つ目が使われていることから、近江源氏(おうみげんじ)佐々木氏と関係の深い神社だと考えられ、甲良宗廣(こうらむねひろ)が現在の本殿を造営したと伝えられます。
 本殿横にある権殿はもとの本殿で、室町中期に火事で焼けた後再建された建物の一部といわれていますが、江戸時代初期の墨書が残っているため、その頃の建立と考えられ、国の重要文化財に指定されています。建物の背が非常に高く、規模は小さいですがしっかりした造りです。また、直線的な屋根や神社の建物の配置などが、伊勢神宮によく似ているといわれています。

【尼子城の堀跡、殿城池(別名お園堀)】
尼子城は、京極家5代で室町幕府の重臣で「バサラ大名」として其の名を天下に轟かせた京極高氏(道誉)の嫡孫備前守高久が甲良荘尼子村を領有し尼子氏と称した。
其の頃本家京極家の居城城楽寺の前衛城として築かれたのが尼子城です
嫡男出羽守詮久以後近江尼子氏の居城として南北朝の動乱期京極家の有力連枝旗頭として重きをなしていたが、打ち続く戦乱で城は落ち一族家臣達は四散したと考えられるが、山陰山陽に覇を握る分系の雲州尼子氏を頼り彼の地で活躍した一族家臣も多く、近江尼子氏は史上から姿を消しています。

 

 

 

 

 

 

館跡のある尼子の集落の西側には尼子氏一族の墓もある。 尼子の集落の中、細い道端に案内板と個人宅にありそうな庭の池のような堀跡が残っていた。

付近にお住まいの人によると、20~30年前に引っ越してきたときは、数メートルの深さの堀があり、それを埋め立てて住宅地にしたとのこと。
 今でも、住宅地の中には堀を埋め立てた部分は50~60cmほども低くなっている。


殿城池は、ありし日の尼子城の堀跡です。
昭和初期まで池の西、深さ4、5米で北側に湾曲した竹薮となった堀跡が続いていましたが戦後宅地に変貌しました。
村の東、玄翁堂襄の竹薮から尼子城の土塁と堀跡が県教育委員会により発見され、室町時代では広大な平城であったことが判明しました。
お堀の水神様は落城のとき入水された城主の姫君(八千姫)が祭られています。
又このとき、若く美しい侍女お園も姫の後を追って入水殉死したことを領民が憐れみいつしかこの堀を「お園堀」と呼び敬い親しみ護り続けて今日に至っています。
 尼子城の土塁があった所は尼子土塁公園として

裏に家系図と案内MAP!

 

尼子土塁公園へは、お堂の横を進みます。

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


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