能登川町のお城について
~佐々木氏の武将について~
佐々木氏の本城が、観音寺城で、佐々木氏は観音寺城を守るために、観音寺城の、周辺に、家臣団を、配置しました。観音寺城は、能登川、五個荘付近にあるので、佐々木氏が配置した家臣団の城が、能登川に、たくさんあります。町内に、配置した家臣たちはそれぞれ村落を、支配下におさめ、村の中央に館(城)を設けて、守りを固めました(そんらく↑)
~お城の数・名前~
数:能登川町にあるお城の数は、全部で22か所あります。お城の数は、ほとんどが字によって決められています。下は、お城の名前と、場所です。
1:阿弥陀堂城=阿弥陀堂
2:猪子館=猪子
3:伊庭城=伊庭
4:伊庭御殿=能登川
5:今村城=今
6:伊庭古城=伊庭
7:小川城=小川
8:垣見城=垣見
9:川南城=川南
10:観音寺城=北、南須田
11:国領城=躰光寺国領
12:佐生城=佐生
13:佐野館=佐野
14:新村城=新宮
15:須田館=須田
16:躰光寺館=躰光寺
17:種村城=種村
18:八仏手城=種村
19:福堂館=福堂
20:和田山城=長勝寺
21:山路城=山路
22:安土城=南須田 安土城は、南須田に搦め手口がある
~各武将の城(館)~
能登川には、21か所のお城があり、
種村氏、
新村氏、
小川氏、
後藤氏、
須田氏、
猪子氏、
国領氏の7人。
種村氏:種村の、西側に居館。大橋姓はその子孫。先方種村氏は、伊庭氏からの別家で、八仏手城を築いたが、伊庭氏没落時に、各地分散。
新村氏:佐々木一族、志村に居館。信長勢に抗してろう城し、670人のぎせいをだし、落城。
小川氏:小川に居館。元亀2年(1571年)信長勢に7人の人質を出して、降伏、落城。
後藤氏:佐生城は佐々木氏の下屋敷。佐生城に居館。
須田氏:信濃源氏の、未流。須田九郎為真が、元祖。須田を、支配。
猪子氏:佐々木一族、伊庭氏の未流。猪子次郎が先祖。猪子を支配。
国領氏:先祖高橋氏の、未孫が、国領氏と称した。
垣見城
文献に永田栄俊が、垣見城にいた記録があります。「殿屋敷」「姫屋敷」といわれる場所(伝承地)があります。
金剛寺、昔垣見城でした。
【本堂】
本尊は、阿弥陀如来です。本堂は、寛政6年(1794)1月に完成しました。棟梁は、木澤さんです。昔は、寺台宗の寺院だったそうです。
【鐘】
ここの鐘は、いつもならしている鐘です。冬は5時に、夏は6時にならしています。近くで聞くと、耳がジーンとしました。
【親鸞像】
親鸞「しんらん」は、浄土真宗を教えを説いた人です。本堂前にある親鸞聖人はわりと新しいものです。親鸞(1173~1262)は、鎌倉時代のお坊さんで、仏にすがればだれもが極楽いけると説いた人です。
【石垣】
金剛寺は、昔垣見城でした。垣見城は、永田栄俊が垣見在城していました。
『殿屋敷』『媛屋敷』といわれる伝承地があります。
【正門】
正門には、『浄土真宗 本願寺派 大日山 金剛寺』とかいてあります。
種村城
【種村城について】
種村城は、1350年代に種の小字藪下に、造られました。(そのため藪下城とも言われました)このころは、鉄砲もなく弓矢とやり、刀での戦で、鎧や甲はすべて鉄板でできていたので、身軽には動けませんでした。
幅1m80cmほど・深さ60cmぐらいの堀に囲まれた、普通の家よりも少し大きめの建物だったそうです。お城の門は東に向いています。そのまえは、今も「大開」と呼ばれています。そして、兵隊たちを集めた場所は「木代保」と呼ばれています。
種村城の城主は、佐々木家から種村の地に分家して、種村姓を名乗りました。木代保の家には、佐々木家の紋章があります。これらは、神崎郡史稿などにも記載されています。近くを流れる大同川の横の草道には、石碑があります。
1350年は・・・・
1350年代は、室町時代の前期です。このころは、鉄砲のない時代で、長浜城や彦根城みたいな城ではありません。
新村城
【新村城について】
新村城は、元亀2年に織田信長により落城します。
新村城の城攻めは、町史・近江源氏などにかかれています。志村左衛門忠資
は、永禄16年[1568]9月信長が近江に、軍を進めていらい、徹底的に信長に反抗しました。
このことに応じて志村資忠は、浪人を集めて、新村城にたてこもり3年におよんだ。元亀2年、信長は佐和山城にすすみ、丹羽のもとに泊まりました。9月1日に新村城を攻めさせました。攻撃は、佐久間信盛など、4人に命じ数千の兵で、四方から攻め寄せ670の首数を討ち取りました。お墓は、今もある法筐印塔だといわれています。新村城落城後は、秀吉は新村の地四百石を福谷藤介に、給与しています。
城祉については、神埼郡史、江戸時代の古城取調書、 にも記されています。
年表
弘治(1555~1558)宮西村ができる
永禄 江波が川南村になる
永禄2年新村伊豆守が木を寄付する
元亀1年寶満寺兵火で焼失
元亀2年(1571)8月信長が新村城を、攻略・670人余りが討首に
伊庭城
伊庭城跡は神崎郡能登川町大字伊庭にあり近江守護職佐々木氏の被官伊庭氏の居館跡といわれている往時の伊庭氏は現在では干陸化しているが大中の湖をはじめ琵琶湖の湖上権を握る大きな勢力で、主家たる佐々木氏をないが城にすることさえあったといわれている。その居館跡とされいる、現在城跡とされる伊庭城跡は、伊庭集落内で公民館として、使用されている、謹節館の付近とされている。現在城跡であることを裏付ける遺構は、堀跡館付近の水路のみである。元来伊庭落地には、幾節もの水路、堀割すべてが伊庭城と関係するものでわないかとえ、思われる。その他この謹節館がある地などが、城の存在を示唆する資料となっている江戸時代の伊庭は、おおむね旗本三枝氏の所領であったといえ三枝氏は近くの所領も合わせて、伊庭に代官山も、先述の伊庭城跡現在の謹節館の地にあったのであるまたここより少し東方に「古城」なる小字が遺在しておりここにも城が、存在していたなら、現在伊庭城跡といわれている所がどのように関係するのか、今後の調査研究が待たれる。
山路城
「淡海木間攫」山路村の条には、「山路平兵衛・小路与左衛門在城し、城残れり」とあり、「近江温故録は、山路主馬介胤治が居り元亀元年10月の六角氏再興戦で討死したとし、「大河弁天当国古城主名札」は、山路兵衛の名記している。遺講としては、大字山路の集落中央の東西に一町南北一町半の小字、「城」があり三方を小路で囲まれていた。現在埋め立てられたが、東側の小路は、「堀」と呼ばれ、また、「城前橋」の名前が現在も残っています。
山路氏の民城です。集落の中央に小字名「城」があります。
種村城 石垣・堀→
造られたとき:1350年代「室町時代初期」
造られた場所:種の小字藪下「このため藪下城とも呼ばれていた」
当時の様子
鉄砲もなく弓矢とやりや刀での戦で、よろいや甲は全て鉄板で作られていたから身軽には活動することもできなかった。だから、鉄砲が使われ、鎖や皮で作られたよろいを着けた時代、お城である彦根城や長浜城のような物ではありませんでした。
種村城の城主
種村城の城主は佐々木家から種村姓を名乗りました。種村城はわずか三代で終わっていますが、その子孫はその後もその土地で生活をしてきました。
お城の門は東に向いていて、その前は、今も「大開」と呼ばれ、その横側の小門の方角は「小開き」と呼ばれています。そして、兵隊たちを集めた場所は「木代保」と呼ばれています。
佐生城
遺構:曲輪、石垣、土塁、堅堀?
形式:山城 面積:60m×40m 標高158m
築城者:後藤氏
築城年代:不明 石碑→
佐生城「別名佐野山城」は、六角氏の居城観音寺城のある繖山の尾根筋東端の半島状つき出した峰上に築か山城です。
城の規模は小さいが、主郭内部は二段に分かれていて、「後藤但馬守城」の石碑があります。この主郭内部面「尾根側」に長さ約20m・高さ約3mの石垣があります。
・ 築城者の後藤氏は、永禄11年に織田信長によってほろぼされました。
・佐生城は標高158mの通称佐生山の山頂を利用した山城です。
~城跡の様子~
能登川には、たくさんのお城がありますが、そのほとんどが無くなっています。でも、残っているのもたくさんあります。お城の跡の残し方は、いろいろあります。 石を立ててそこに名前を掘ったり、囲いをしたり、石垣を残したりして、お城は残っています。
猪子山の神社や古墳
僕は、猪子山の神社や古墳に興味を持ったので調べてみることにしました。 まずは登ってすぐにある岩船をみてみることにしました。説によると西暦728年に高島比良の山より湖上をこの地にわたった比良大神が御乗船されたものと伝えられています。この横の社は岩船社と称し渡湖の際岩船を先導された 津速大神がまつられているんだそうです。さらに上に登っていくと今度は、古墳がありました。なんでも、5~6世紀に郷山全土に居住していた豪族たちの墓らしいのですが埋葬されたものなどは、墓あらしなどによって盗まれたものが多いので発見された埋葬品は、少ないのだそうです。頂上には北向岩屋十一面観音とたいそう長い名前の神社があります。坂田村麻呂が鈴鹿の鬼賊討伐の際にここに安置して祈願したと伝えられています 一方その横にある神のいわくらというものがありここに神が降臨したと言われています。さっき言った岩船やいま言った神のいわくらのような石の説がつくられた時代は、奇石、怪石に対する崇拝がさかんでこの二つは、巨石崇拝時代の遺物と言えます。また、古墳は、見つかった埋蔵品は、少ないのですが見つかった物は、埋蔵文化財センターにあるので実際に学校に来てもらって見せてもらいました。見せてもらった物の中に『まがたま』というものがあって なんでも、自分の地位をあらわすための物らしいです。このように数少ない物からでもこのような事がらがわかります。
この二つのことからも分かるようにこの猪子山のような小さい山でもいろいろな歴史があることがよくわかりました。それに加えてきぬがさ山全土にはもっと多くの神社や古墳があるそうです。今度はきぬがさ山全土の神社や古墳を調べたいです。
【織田 信長】 安土城について
戦国大名、幼名吉法師または、三郎・信秀の美濃の斎藤道(どうさん)の娘と結婚、永禄三年今川義元を桶狭間(おけはざま)に破り、斎藤氏をも滅ぼして勢力を拡張。足利義昭を立てて上洛し室町幕府を再興させる。のち義昭を退け、安土城を築いて国内の征討(せいとう)にあたる一方、開所をはいし、楽市、楽座を行なうなど統一政権樹立の基礎を固めたが、雄図半ば、京都本能寺で明智光秀に襲われ自刃。(一五三四~八二)
世界でも珍しい゛木造゛ 高層建築のお城
安土城は、織田信長によって天下統一の拠点として琵琶湖の湖畔にある安土山(現在の滋賀県安土町)に造られたお城。1579年に完成して、その後1582年までのわずか3年ほどしか存在しませんでした。「敵は本能寺にあり」の本能寺の変をご存知の方も多いと思いますけど、織田信長家臣の明智光秀の楳反(1582年6月2日)によって、よを去ってすぐあと(6月14日)にお城の司令塔、天主が炎上してしまいました。その後、豊臣家が天下を取って拠点を八幡に移したため、お城は建て直されることもなく廃城となってしまいました・・・・そして月日は流れ1989年から安土城の発掘調査が始まったのです。次第に解き明かされる幻の城は、日本で最初の天主閣を持った近世のお城!安土城の頂上に建てられた天主の部分の高さ32、4メートル、面積約430平方メートルを有する五層七重、地上6階・地下1階の建築だったと考えられている層です。当時の日本は2階建て以上の建築物(例えば京都の金閣銀閣など)ですら珍しい時代、地上6階などというこの建物を見たら度肝を抜かれたのでしょうね!天主の構造や内部の様子については現在でもなぞの部分が多く研究中で色んな説があるようですが、なんと屋根がわらには金箔のかわらが使われ、室内には狩野永徳の描いた金色に輝く障壁画があったお城だったようです。また3階部分には吹き抜けがあったようで日本初の吹けのあった建物とも考えられている。
安土城
信長が天正4年に安土山に7 層の天守閣を持つ城をつくりました。これが安土城です。安土城には前例のない大規模な天守閣がそびえ天守閣の下の本丸には御幸の間・南殿を初めとする御殿が立ち並んでいた。天守閣は東西および南北ともに17間(1間は7尺・2m12cmぐらい)ほど不整形な石垣の上に建っていた。外観は5重、内部は石垣の穴蔵を含めて7階であった。高さは16間半。外側はうるしで黒く塗り,かわらは小口を金銀で飾っていた。最上階である5重目は周囲に高欄のある縁がめぐり.柱は金、その下の4重目は8角形であった。内部は穴蔵の上の1階から最上階の6階までに多くの部屋があり、床・違棚などのある座敷のあった。安土城は火災にあい石垣などが残るだけですが最近の発掘調査で城のできた当時のことが少しずつわかってきています。
能登川町 ~宗祇法師について~
宗祇法師とは、ほうろうかじんとして、いろんな歌を作っていました。宗祇法師の出身地は、伊庭と言われています。松尾芭蕉も、自分のさきを歩いた人として歌の大先輩として、尊敬しています。「能登川町てんこもり」にのっている能登川町を生んだ人々として書かれています。また、林中央公園の近くには宗祇法師の騎馬像がありその隣には説明をしているはしらが立ってます。そこには、「故郷で吟行する宗祇騎馬像」や「室町時代の連歌師宗祇法師生誕地」と書かれています。これは平成16年3月に立てられました。宗祇法師が残した歌には
~近江国にて~ 「かげすずし 南のみ山 北の海 しげりあふ末や 千枝の村がしは」
~近江にくだりしとき湖辺にて~ 「月ぞ舟 夕わたりせよ 郭公」
などがあります。
能登川町のおもしろ話
昔、信長が、天下統一を目指そうと、この湖東の地をおとずれた時のことです。信長はこの地の主に通行を願いました。この地の主は家の者を集め会議を開きました。結果はとうれぬという結果でした。しかし、会議で、一人だけ通って良いと言う種村と言う男がいました。そして、主君に怒られました。