城郭探訪

yamaziro

1600年 三成40才

2013年03月04日 | 平城

1600年 三成40才 戦場から離脱した 

母の故郷・北近江の古橋村へ。

村の百姓・与次郎が三成を山中の洞窟にかくまってくれた。

「与次郎、そちはなぜこんなにわしに尽くしてくれるのじゃ」
「お殿様はかつてこの村が冷害にあった時、すぐ駆けつけてくれ米百石を頂戴しました。
あの米がなかったらこの村はみな飢え死にしたでございましょう。あの大恩、決して忘れてはおりません」

「……恩か、そちのような者が我が配下にもっとおれば、(関ヶ原で)負けることはなかった…」

----------しかし、与次郎の娘婿が山狩りの探索者に三成のことを通報。三成は捕縛された。

三成の恩を知らなかった養子がつい三成のことを密告してしまったという。
だからね、古橋村ではこの時から、他の村から養子はとらないと決め、昭和の時代までその伝統は続いていたらしい
それほど三成の恩を深く感じていたということなんだろね

三成が隠れていた岩穴へ「岩窟=オトチ(大蛇)岩窟」雨が激しくマムシが出るとも。

逃亡7日目の9月21日三成は追捕隊に捕縛され 3日後の24日---------捕まった三成は大津城に連行された。
身柄は徳川家康がいる大津城へ移された

  大津城(CG画像)
  大津城籠城戦

  「門前に畳を敷き その上に座らせておけ」

  家康はそう命じた

  この日 福島正則・黒田長政ら東軍に与した豊臣恩顧の大名が挨拶にやってくる予定で

  あり 生き曝しにしようとの魂胆である

  福島正則は馬上からののしり声を放った

  福島正則(1561-1624年)
  福島正則

  「治部! うぬは内府公にたてつき 無益の乱を起こしおってからに 結果がそのざまか!」

  三成も黙ってはいない 眼光鋭く正則を睨み付けて叫んだ

  「なにをぬかすか! 故太閤殿下のご恩をないがしろにする恥知らずに わしの心がわかって

  たまるか! 天運がわしにあれば 生き曝しになっていたのはうぬのほうだ!」

  正則は逆上した さらに罵倒する

  「なぜ腹をきらなんだ! 金勘定ばかりやってきたうぬには 切腹する気概もないのか それ

  でも武士か 恥を知れ 恥を!」

  三成は顔面を蒼白にしながらも切り返す

  「恥知らずはうぬのほうだ! 知慧なき猪武者や葉武者は すぐに腹を切りたがる しかし

  大志を抱く武士は最後まで再挙の機会を待つものぞ 佐衛門 心して聴け! うぬらのなし

  たこと 泉下の太閤殿下に残らず報告してやる しかと 心得ておけ!」

  次いでやって来たのは 小早川秀秋だった

  小早川秀秋(1582-1602年)
  小早川秀秋

  秀秋の姿をみるや 三成はいきなり一喝した

  「おのれ 金吾!」

  「・・・・・」

  「うぬは太閤殿下の連枝であり 殿下からは数知れぬご恩を被った身であろう にもかか

  わらず 約を違えて義を棄て 人を欺き裏切るとは何たる非道 うぬの醜名 末の世まで

  伝えられ 嘲笑されるは必定ぞ!」

  「・・・・・」

  秀秋は一言も返さず 耳を塞ぐようにして走り去った

  秀秋の後には黒田長政がやってきた

  黒田長政(1568-1623年)
  黒田長政

  意外なことに 下馬して三成の前に片膝を着き言葉をかけた

  「ご武運つたなく このようなお姿になられるとは さぞかしご無念であろう」

  「・・・・・」

  三成は 正則のときと同じく激しく面罵するつもりでいたが 予想もしない慰藉の言葉に

  即応はできなかった

  「その格好では寒うござろう これを」

  長政は自分が着ていた羽織を脱いで三成の肩にかけたあと 一礼して去っていった

  「かたじけない・・・」

  三成の口から呟くような声が漏れた

  三成とは犬猿の仲で 三成の肉を喰らってやるとまで広言してはばからなかった長政

  だが三成の“義心”だけは理解していたらしい


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