城郭探訪

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飯福寺遺構(鶏足寺別院) 近江国(木之本)

2016年08月13日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町古橋町  map:http://yahoo.jp/xKWEMP

別 称:鶏足寺別院

区 分:城郭寺院

現 状:鶏足寺(旧飯福寺)

標 高:211m   比交差:34m(石道寺より)

築城年:

築城者: 

遺 構:石垣・坊跡 

目標地:石道寺の裏山

駐車場:石道寺の車場

訪城日:2016.6.26

お城の概要

木之本の石道寺裏山を越えて入る。

古橋から入るのが本来の道のようである。が、今は廃寺か?(無住寺)。しかしその後村人の努力により現在のように整備され「幽遂の仙境遠く俗塵を離れたたる古刹」の面影を残しつつ大切に守られている。

 本堂までの参道両側には石垣が積まれ、城郭寺院の面影をとどめている。また参道両脇にはもみじの木々が茂り、若葉,紅葉の時期には見事な景色を楽しむことができる。

鶏足寺(旧飯福寺)は、中世には僧兵を要するほどの大寺で、緩やかな参道の石段や苔むした石垣などの佇まいは今も往時を偲ばせます。秋は境内を埋める200本ものモミジの古木が紅葉し、一層の由緒深さが感じられます。現在は廃寺となっており、普段は地域住民の手によって管理がなされています。 秋は紅葉の名所「鶏足寺」として、毎年多くの方が紅葉散策に訪れることで知られています。 ゆるやかな参道の石段、苔むした石垣に二百本のもみじの古木が幽玄な情景を醸し出しています。

お城の歴史

鶏足寺(旧飯福寺)概要:現在鶏足寺と合併 

鶏足寺の創建は天平7年(735)、行基によって開かれたのが始まりと伝えられています。

その後衰退しましたが延暦18年(799)に最澄が再興すると寺運が隆盛し己高山は天台宗の一大霊場として多くの寺院が集まり、その中でも己高山七大寺(己高山五箇寺とも)の1つに数えられました。

文永6年(1269)に真言宗に改宗、中世は京極氏や浅井氏など歴代領主の祈願所として庇護され多くの僧兵を擁していました。

江戸時代に入っも徳川家から寺領が安堵されていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈運動により急速に衰退し昭和8年の火災により事実上廃寺となります。寺宝の多くは鎮守社であった与志漏神社の境内にある己高閣、世代閣に移されています。

            

中世には僧兵を擁するほどの大寺で、時の権力者の庇護を受け安定した寺運を続けましたが、江戸幕府の終焉とともに衰微しました。

                     

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査、長浜市観光情報

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野一色城 近江国(山東)

2016年08月13日 | 平城

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡山東町)野一色町  map:http://yahoo.jp/2vAfA7

区 分:平城

現 状:八幡神社一帯

標 高:ーm   比交差:-m

築城年:織豊期

築城者: 野一色氏

遺 構:土塁・空堀

目標地:八幡神社

駐車場:八幡神社駐車場

訪城日:2016.5.12

         

滋賀県中世城郭分布調査『旧坂田郡』に野一色城の説明ある。

お城の概要

大原氏始祖重綱よりいでし、野一色氏の居館。近世に入り徳川氏に仕え功績により2000石を与えられ幕末に至る。

居館は三方土塁・空堀を巡らし、その外側にも土塁の残欠が認められる。

明治初期の大絵図に、その規模を知ることができる。また北東の鬼門の方に八幡神社存在する。

 

           

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 野一色 住 佐々木隋兵 野一色刑部・野一色 住 佐々木大原末 野一色男 介七」の名が見える。

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 野一色村 野一色氏ハ大原源太郎重綱ヲ以テ祖トス、世々京極家・浅井家に属ス、頼母

之介ト云シ人ハ江北横山ノ城ニ於テ一番槍ヲ合テ高名ヲ躇ス、慶長ノ逆乱ニ働キアリ、記ニ載ス、孫流相続セリ」と記す。

野一色助義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

野一色 助義(のいっしき すけよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。中村一氏の家臣。通称は頼母

近江国坂田郡廼一色出身。中村一氏に家老として仕える。石高は8,000石。豪傑として知られる。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前夜に起こった杭瀬川の戦いでは、一氏の弟・一栄(一氏が合戦前7月に死去したため陣代)に従い 島清興軍と衝突。敵を追撃しようと橋を渡ったところで伏兵に遭い、これに猛撃される。

乱戦の中、金の三幣の指物をつけて、騎馬で手強く奮戦するも深田に足をとられ宇喜多氏の家臣の浅賀左衛門(左馬助)に討ち取られた。後から追いついた家臣の奮戦により、首は奪われずにすみ、兜塚(大垣市赤坂西町)に着用の鎧兜と共に葬られたと伝わる。

助義の首と鎧兜が埋められたと伝わる鎧塚(岐阜県大垣市赤坂西町)

家督は三男の義重が継いだ。次男・助重は大阪の陣で東軍に属するも戦死、四男・助忠は池田忠雄の家臣となった。

野一色頼母

近江出身の侍。1548-1600(天文17-慶長5)。佐々木支族というから南近江の六角氏に仕えていた。
六角氏の滅亡後は織田系の将校の家臣に、秀吉子飼の古参の中村一氏に仕え。中村一氏は四国征伐や小田原征伐とかの軍功により近江水口城主から駿府城主17万石になった。
 本来東海道の駿河といえば関東の家康抑えの重要拠点で中老職となった、一氏は浜松の堀尾吉晴同様に家康牽制の重要な役割を担っていました。
 一氏を困らせたのが東海道の付け根、尾張清州の福島正則と三河吉田(豊橋市)の池田輝政が家康への急接近。結果的に遠江掛川の山内一豊が家康に全面的にくらがえったことから若手大名がこぞって家康についてしまったのです。
 中村一氏は本来は前田利家を頼って親豊臣にいる人物でした。しかし関ケ原の2ヶ月前に他界、あとは中村家の家督を実弟の一栄に託す。
 野一色頼母はその侍大将として従っていましたが、中村家は当主が幼君の一忠だったこともあって常に戦陣の後方を拝す立場にあってなかなか軍功の先陣にありつけず、東軍が大垣城を囲んだ際に、到着した家康の御前の前で活躍しようと大垣西方の杭瀬川で西軍の島左近・明石掃部に対して有馬隊とともに戦いを挑み、西軍は“青田刈り”といって付近の兵糧となる稲を刈って東軍を挑発しておびき寄せました。 この挑発に乗った野一色頼母は中村隊を率いて深手にハマり敵の挟撃にあって敢え無く命を落とした。不幸にも東軍の戦勝前に討ち死になってしまいました。
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア(Wikipedia)、佐々木南北諸氏帳、淡海国木間攫
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武佐寺陣所 近江国(近江八幡)

2016年08月09日 | 陣所

長光寺陣所跡を思わせる長光寺(武佐寺)

お城のデータ

所在地:近江八幡武佐町  map:http://yahoo.jp/QztJuE

区 分:陣所

現 状:長光寺(武佐寺)

標 高:ーm   比交差:-m

築城年:鎌倉期 永正3年(1506)

築城者: 

遺 構:長光寺

目標地:長光寺

駐車場:長光寺 

訪城日:2016.8.9

     
中世東海道(東近江市「能登川の歴史2巻53頁」より)

お城の歴史

 南北朝以降戦乱に巻き込まれることが多く、文和年間(1352-56年)には足利尊氏は後光厳天皇を奉じて武佐宿へ、義詮は摂津を経て播磨国鵤宿へ落ち延びた。

文和四年(1355)正月中旬後光厳天皇、乱を避けて当寺に駕籠を駐め賜ふ。  康安元年(1361)十二月再び臨幸ましまし、六十日間御駐輦(ちゅうれん)あらせられたり

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男。

 元弘3年(1333)、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・尊氏が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに方丈家の人質として鎌倉へ留め置かれた。

尊氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した。

 この際千寿王は、父の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付し、後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒を作る。これが新田義貞と足利高氏の関係が悪化する元となる。建武の新政では、叔父の直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。

尊氏による幕府開府後、足利家の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、師直のクーデタにより直義が失脚すると、義詮は京都へ呼び戻され直義に代わり幕府の政務を任される。

正平6年(1351)8月には、尊氏が直義派に対抗するために義詮と共に南朝に降伏し、11月に年号を南朝の「正平」に統一する正平一党が行われる。翌年に南朝方の北畠親房や楠木政儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した結果、光巖、光明、崇高天皇の三上皇及び皇太子の直仁親王を奪われたが、観応の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還し、三種の神器の無い状態で新たに後光厳天皇の即位を実現させる。また、正平8年(1353)6月、正平10年(1355)1月にも異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われている

文和三年(1354)十二月に、南帳軍の足利直冬・桜井直常らが京へ迫った際に、「支えきれない」と判断した足利尊氏ら北朝軍が、後光厳天皇とともに避難した先が「江州武佐寺」『太平記』

                

武佐寺略記

 当寺は所謂、武佐寺の一部にして推古二年甲寅二月聖徳太子、武阿綱に命じて伽藍を此の地に建立し賜ひ、之を武作寺と称す。

村名、武佐の由りて来る所、蓋し此れによるか。由りて自ら彌陀の像を作り其の一堂に安置し名付けて東金堂と云う。即ち当寺是れなり。

また別に観音の像を作りて別堂に安置し名付けて西金堂という。      
今の長光寺是れなり。    当寺爾来天台宗に属せしが嘉禎元年(1235)四月見真大師(親鸞聖人1876年追贈)関東より帰路の途次寄錫あり。

寺主大師に謁して聞法随喜し直ちに師弟の契りを結びて其時より真宗に帰す。大師のちの名を大同房了仙と賜い六字尊号に所持の念珠と和歌      
  
○南無阿弥陀仏をたのむ人なればなればみなたすくべき近いなり      
○百八の心なからに称ふれば 南無阿弥陀仏にめぐりあふなり      
○くりかえしくりかえしても尊きは南無阿弥陀仏の御名にぞありける   
      
と三首を添えて、汝我を見んと思はば此の記念を見るべし と。  是等の品今なお当寺に宝蔵す。      
元暦元年(1184)四月左近衛中将平重衡朝臣、鎌倉へ護送せらる時、当寺に詣で本堂の柱に      
      
 ○世のうきめみつつ近江の武佐寺や広く済はん法ぞうれしき     と題して去れり。

惜哉、其後兵火のために其堂焼失せり。      
文和四年(1355)正月中旬後光厳天皇、乱を避けて当寺に駕籠を駐め賜ふ。      
康安元年(1361)十二月再び臨幸ましまし、六十日間御駐輦(ちゅうれん)あらせられたり。後、貞治元年(1362)当寺住持還栄を法眼僧都に叙し、彌陀の古像一軀(安阿彌の作と云ふを賜ふ) 即ち今の本堂御本尊これなり。此時より太子御自作の阿弥陀如来は之を内道場に安置することとなれり。      
永正より天正に至る年間に加賀国本願寺の所領となれりし時、当寺の住持祐乗、實如上人の命を受けて加賀国を治む。 由りて金沢に一寺を建立して広済寺と称す。

天正十五年(1587)当寺主、嗣子なきを以て之を本願寺に求む。顕如上人のち安休房西周に命じてその嗣となす。

安休は浅井久政の子にして徳川家の姻戚たり。是を以て家康、秀忠の二公の寵遇を受け、廔々幕府に召され拝受せし数二、三に止まらず。

   

参考資料:東近江市「能登川の歴史2巻」、武佐寺略記、Wikipedia、近江八幡市の歴史第六巻

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淀古城2つ 【淀小畠城と淀藤岡城】 

2016年08月01日 | 平城

京都「淀古城」2カ所あった? 古文書から大学専任講師推論

                                                          【京都新聞 2016.8.1】

岡本雅男家文書から見つかった土地売券。1536年2月1日の文書で淀周辺の土地売買の様子が記されている(長岡京市提供)

 戦国時代の京都市伏見区の淀や納所の状況を表す古文書が、京都府長岡京市所蔵の「岡本雅男家文書」から、このほど見つかった。調査した大阪大谷大専任講師の馬部隆弘さん(40)は文書の土地売買の状況から、通説では納所にあったとされる中世の「淀古城」が実際は、「納所」と淀川の中州にあたる「島之内」の2カ所にあったとの推論を導き出し、専門誌「古文書研究」で発表した。現在の淀城跡がある島之内の開発が従来の見解よりも早い15世紀末までには進んでいたと想定し、地域史の見直しを問いかけている。

■納所「淀小畠城」と島之内「淀藤岡城」

 見つかった15通の文書は淀周辺の土地売券だった。特に多かった納所郷の売券からは文中に出てくる「小畠氏」が納所郷にあったとみられる荘園の下司(荘園の役人)を務め、納所を拠点としていたことが分かった。

 小畠氏が拠点とした納所の城は、後に管領細川氏が入った際にも「淀小畠城」と呼ばれ、その跡地には豊臣秀吉が城を造営している。通説では、島之内の開発に伴い、江戸時代に入って納所から島之内に城が移転したとされてきた。

 小畠氏以前には、石清水八幡宮の神人(じにん)(下級神職や住民)勢力とされる「藤岡氏」が「淀古城」に入城したとされている。馬部さんは当時の内乱(薬師寺の乱)で、参戦者が納所から淀小橋を渡って「淀藤岡城」に退却したとの記録が従来からあったため、藤岡氏の城は納所でなく、島之内と考えていた。

 馬部さんは、有力な神人だった藤岡氏が、その財力で当時からいち早く中州の開発を進め、島之内に「淀藤岡城」を築いていたと推察。小畠氏らの武家勢力は神人勢力圏の島之内に入れず納所にとどまらざるをえなかったと解釈し、納所の「淀小畠城」と島之内の「淀藤岡城」の二つの拠点が存在したと結論づけた。

 馬部さんは「戦国時代の淀でやりとりされた古文書は初めて出てきた。当時の淀は神人勢力中心の集落と武家勢力が治める地域と、城を核とする二つの世界が交錯する複雑な地域構造を呈していた。江戸時代初頭の淀築城、それを一元化するものだったと評価したい。文書の発見で淀の地域史の研究がさらに進む」と期待する。