やあ、いらっしゃい。
8月最終の週に突入。
蝉時雨に夏の終りの寂寥感を感じる、今日この頃だね。
今夜お話しするのは、恐い話と言うより、悲しい話と言えるだろう。
長野県の、つつじに由来する伝説だ。
信州、小県(ちいさがた)の山口村に、昔、1人の美しい娘が居た。
或る年の祭の晩の事、ふとした事から、松代の若者と知合って、行末を契った。
しかし、祭が終ってみれば松代は山また山の向うで、契り交した事も夢の中の出来事の様であった。
娘は1日の畑仕事が終って家の者が寝静まると、こっそり家を抜け出し、夜空に黒く連なる山並みを眺めては立ち尽すようになった。
「ああ、おらの体ごと、あの山の向うに投げ出してぇ…。」
娘は火照る頬を両手に挟んで、ほっと息を吐いた。
「山ぁ越えて、行きてぇ…。」
そう思い詰めると、娘はもう、居ても立ってもいられなかった。
と、その時、ちらちらと小さな火が1つ、山を越えて行くのが見えた。
「誰か……山を越えて松代に行く。
おらだって行けねぇ筈はねぇ、行くだ…!」
娘はぐいぐいと何かに引寄せられる様に歩き出した。
その夜更け、松代の若者は、ほとほとと戸を叩く音に驚かされた。
戸を開けてみると、そこには山口の娘が立っていた。
荒々しく、息を弾ませ、目からはきらきらと強い光を弾き出して、娘が立っている。
――その夜から毎晩、娘は松代へ通うようになった。
戸を叩く音に若者がそっと戸を開ける。
すると、娘は握り締めた両手を差し出して、ぱっと開いた。
そこには、熱い搗き立ての餅が、1握りづつ載っている…。
若者が餅を取ると、娘は漸くほっとした様に、息を吐いて、部屋に上って来る。
「この餅はどうして?」
若者は熱い餅を頬張りながら尋ねた。
しかし娘は、もう1つの餅を頬張りながら、目で笑うだけで、1度も答えようとはしなかった。
或る嵐の晩だった。
今夜はまさか来ないだろうと寝入っていた若者は、戸を叩く音に目を覚ました。
――戸を開けた前には、長い髪も、着ている物も、ずっくりと濡らした娘が立っていた。
その目からは何時も以上に強い光が弾き出され、ぱっと開いた両手に握り締められていた餅は、何時も以上にずっと熱かった。
若者は、ふと、恐ろしくなった。
「お前、この頃げそげそ痩せたなぁ。
顔も真っ蒼だし、まぁず、何かに取憑かれた様だねか。」
仲間の若者達に、そう言われた事が思い出された。
女の身で、太郎山、鏡台山、妻女山、幾つも幾つも在る山を越えて、毎夜通える筈が無ぇ。
まぁず、これは魔性のもんではねぇか。
そう思うと、若者は娘が不気味に思えて来た。
その夜、初めて若者は、差し出された餅を、口に入れなかった。
それから――若者は娘が、次第に厭わしくなって来た。
娘は冷淡になって行く若者の心が、不審でならなかった。
この山さえ無かったら…
この山さえ無かったら…!
娘は声を上げて泣きたい思いに駆られながら、尚山を越えて通い、通う日が重なる毎に、若者の娘に対する厭わしさは募って行った。
或る夜、娘はとうとう若者に、どうして餅を食べてくれないのかと問い詰めた。
「前にはあんなに、美味い美味いと食べてくんなしたのに…!」
若者は苦し気に、この頃心に思っている事を、娘に話して聞かせた。
「おら……お前は魔性のもんではないかと思うようになった。」
若者は最後に、ぼそっと言った。
娘は泣いた。
泣いて言った。
「おら、家を出る時、1握りづつ餅米掴んで出ます!
そうして、お前の事を思いながら、餅米を握り締め、山を越え、山を越えて走って来ます!
せば…掌の米は餅になっていますに…!
おら、魔性のもんではねぇ!
お前を思う心だけが、山を越えさせてくれるだけですに!
信じておくんなんし…!」
けれども、若者の疑いは晴れなかった。
日に日に蒼褪め、痩せて行く自分を見ると、何時かはこの魔性の物に取殺されてしまうに違いないと思い詰めた。
そしてとうとう、娘を殺してしまおうと心に決めて、家を出た。
若者は月の光を踏んで、山道を登って行った。
娘が必ず通る太郎山から大峰の道に、『刀の刃』と呼ばれる難所が在る。
若者はそこで娘を待ち伏せようと思ったのだった。
真夜中の山道は不気味な静けさが垂れ込め、月の光は刃の様に鋭く明暗を分けて輝き、得体の知れぬ獣の叫びが時折木霊する。
「この道を女1人で走るとは……いよいよ魔性のもんと決まった!」
谷底を見下ろして……若者はぞっと体を震わせた。
若者は崖に身を潜め、娘を待った。
どのくらい経ったか…小さな影が現れた。
髪を振り乱し、両手をしっかと握り締め…それは確かに、山口の娘であった。
風の様に走って来る。
若者は娘を一旦やり過ごすと、躍り出て、絶壁の上から深さも知れぬ谷底へ、娘を突落した。
哀れな娘の血が滴ったのか――
――以来、この山々には、真っ赤なツツジが咲乱れるようになったという。
執念で人は、化物に変化し。
恐怖で人は、化物を生出す。
そんな人の心中にこそ、異界の扉は存在するのかもしれない…
今夜の話はこれでお終い。
…それでは22本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…
……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。
いいかい?……くれぐれも……
……後ろは絶対に振り返らないようにね…。
『日本の民話10 ―残酷の悲劇― (松谷みよ子、瀬川拓男、清水真弓、大島広志、編著 角川書店、刊)』より。
8月最終の週に突入。
蝉時雨に夏の終りの寂寥感を感じる、今日この頃だね。
今夜お話しするのは、恐い話と言うより、悲しい話と言えるだろう。
長野県の、つつじに由来する伝説だ。
信州、小県(ちいさがた)の山口村に、昔、1人の美しい娘が居た。
或る年の祭の晩の事、ふとした事から、松代の若者と知合って、行末を契った。
しかし、祭が終ってみれば松代は山また山の向うで、契り交した事も夢の中の出来事の様であった。
娘は1日の畑仕事が終って家の者が寝静まると、こっそり家を抜け出し、夜空に黒く連なる山並みを眺めては立ち尽すようになった。
「ああ、おらの体ごと、あの山の向うに投げ出してぇ…。」
娘は火照る頬を両手に挟んで、ほっと息を吐いた。
「山ぁ越えて、行きてぇ…。」
そう思い詰めると、娘はもう、居ても立ってもいられなかった。
と、その時、ちらちらと小さな火が1つ、山を越えて行くのが見えた。
「誰か……山を越えて松代に行く。
おらだって行けねぇ筈はねぇ、行くだ…!」
娘はぐいぐいと何かに引寄せられる様に歩き出した。
その夜更け、松代の若者は、ほとほとと戸を叩く音に驚かされた。
戸を開けてみると、そこには山口の娘が立っていた。
荒々しく、息を弾ませ、目からはきらきらと強い光を弾き出して、娘が立っている。
――その夜から毎晩、娘は松代へ通うようになった。
戸を叩く音に若者がそっと戸を開ける。
すると、娘は握り締めた両手を差し出して、ぱっと開いた。
そこには、熱い搗き立ての餅が、1握りづつ載っている…。
若者が餅を取ると、娘は漸くほっとした様に、息を吐いて、部屋に上って来る。
「この餅はどうして?」
若者は熱い餅を頬張りながら尋ねた。
しかし娘は、もう1つの餅を頬張りながら、目で笑うだけで、1度も答えようとはしなかった。
或る嵐の晩だった。
今夜はまさか来ないだろうと寝入っていた若者は、戸を叩く音に目を覚ました。
――戸を開けた前には、長い髪も、着ている物も、ずっくりと濡らした娘が立っていた。
その目からは何時も以上に強い光が弾き出され、ぱっと開いた両手に握り締められていた餅は、何時も以上にずっと熱かった。
若者は、ふと、恐ろしくなった。
「お前、この頃げそげそ痩せたなぁ。
顔も真っ蒼だし、まぁず、何かに取憑かれた様だねか。」
仲間の若者達に、そう言われた事が思い出された。
女の身で、太郎山、鏡台山、妻女山、幾つも幾つも在る山を越えて、毎夜通える筈が無ぇ。
まぁず、これは魔性のもんではねぇか。
そう思うと、若者は娘が不気味に思えて来た。
その夜、初めて若者は、差し出された餅を、口に入れなかった。
それから――若者は娘が、次第に厭わしくなって来た。
娘は冷淡になって行く若者の心が、不審でならなかった。
この山さえ無かったら…
この山さえ無かったら…!
娘は声を上げて泣きたい思いに駆られながら、尚山を越えて通い、通う日が重なる毎に、若者の娘に対する厭わしさは募って行った。
或る夜、娘はとうとう若者に、どうして餅を食べてくれないのかと問い詰めた。
「前にはあんなに、美味い美味いと食べてくんなしたのに…!」
若者は苦し気に、この頃心に思っている事を、娘に話して聞かせた。
「おら……お前は魔性のもんではないかと思うようになった。」
若者は最後に、ぼそっと言った。
娘は泣いた。
泣いて言った。
「おら、家を出る時、1握りづつ餅米掴んで出ます!
そうして、お前の事を思いながら、餅米を握り締め、山を越え、山を越えて走って来ます!
せば…掌の米は餅になっていますに…!
おら、魔性のもんではねぇ!
お前を思う心だけが、山を越えさせてくれるだけですに!
信じておくんなんし…!」
けれども、若者の疑いは晴れなかった。
日に日に蒼褪め、痩せて行く自分を見ると、何時かはこの魔性の物に取殺されてしまうに違いないと思い詰めた。
そしてとうとう、娘を殺してしまおうと心に決めて、家を出た。
若者は月の光を踏んで、山道を登って行った。
娘が必ず通る太郎山から大峰の道に、『刀の刃』と呼ばれる難所が在る。
若者はそこで娘を待ち伏せようと思ったのだった。
真夜中の山道は不気味な静けさが垂れ込め、月の光は刃の様に鋭く明暗を分けて輝き、得体の知れぬ獣の叫びが時折木霊する。
「この道を女1人で走るとは……いよいよ魔性のもんと決まった!」
谷底を見下ろして……若者はぞっと体を震わせた。
若者は崖に身を潜め、娘を待った。
どのくらい経ったか…小さな影が現れた。
髪を振り乱し、両手をしっかと握り締め…それは確かに、山口の娘であった。
風の様に走って来る。
若者は娘を一旦やり過ごすと、躍り出て、絶壁の上から深さも知れぬ谷底へ、娘を突落した。
哀れな娘の血が滴ったのか――
――以来、この山々には、真っ赤なツツジが咲乱れるようになったという。
執念で人は、化物に変化し。
恐怖で人は、化物を生出す。
そんな人の心中にこそ、異界の扉は存在するのかもしれない…
今夜の話はこれでお終い。
…それでは22本目の蝋燭を吹き消して貰おうか…
……有難う……どうか気を付けて帰ってくれ給え。
いいかい?……くれぐれも……
……後ろは絶対に振り返らないようにね…。
『日本の民話10 ―残酷の悲劇― (松谷みよ子、瀬川拓男、清水真弓、大島広志、編著 角川書店、刊)』より。