Kuniのウィンディ・シティへの手紙

シカゴ駐在生活を振り返りながら、帰国子女動向、日本の教育、アート、音楽、芸能、社会問題、日常生活等の情報を発信。

1970年代のメジャーリーグ<その1>~ルースのホームラン記録714号を破ったハンク・アーロン

2008-07-30 | メジャーリーグ
今週のハーパー・カレッジの「アメリカ野球の歴史」のクラスは、1970年代のメジャーリーグで活躍した選手たちやチームをDVDで紹介しながら、ディパルマ教授が分析した。

ディパルマ教授の「1970年代」という分析プリントによると、教授が選んだオールスターチームのメンバーの中に、よく名前を聞く選手がでてきた。ジョニー・ベンチ、マイク・シュミット、バリー・ボンズの父、ボビイ・ボンズ、レジー・ジャクソン、そしてピート・ローズなど。ピッチャーの中に先週クラスにきて、講演をしてくれたビル・キャンベルの名前もあったので、感激!ビルは、地元パラタインに住んでいるから、また会えるかな。

この分析プリントにあった、1970年代のベスト5項目、ワースト5項目という部分が面白い。ワーストは、選手とマネジメントとの闘争、環境の悪い球場の出現、引き続く人種差別、ファンの暴飲、暴力など。

ベストの筆頭は、ハンク・アーロンが不滅と言われたベーブ・ルースの714本のホームラン記録を塗り替えたことだ。アトランタ・ブレーブスにいたアーロンがルースの記録にあと1本とせまったオフのとき、1日に3000通ものほとんど名前のない手紙が届き、マスコミからの重圧もあり、苦悩の日々を送ったという。白人である偉大なルースの偉業を黒人であるアーロンが抜くことに対する脅迫状も多かったという。アーロンは苦しみながら、「ルースを忘れて欲しいのではない。ただ、みんなに私のことを覚えていてほしいだけだ。」と謙虚に語った。

DVDで見たのは、1974年のシンシナッティでの開幕戦の第1打席で通算714号を放ち、ルースの記録に並んだときの貴重な映像。そして、4日後の4月8日、本拠地アトランタで、高めの球を見事ホームランに持っていき、715号という数字が電光掲示板に輝く。ホームに飛び込み、みんなの祝福を受けながら、両親と抱き合うアーロン。母親としばらく抱き合って、興奮をわかちあう。「Move over Babe. Here comes Henry」という事実そのままの歌も当時ヒットしたという。

アーロンは、通算本塁打755号を打ち、1977年9月3日に、756号のホームランを打った日本が誇る王貞治にその偉大な記録を抜かれた。私は、このときの王のホームランを目撃したという熱狂的な興奮を覚えている。755号を王が打ったとき、そして756号を打ったとき、そのときの各打席のラジオ中継を克明にテープに録音し続けた。まだ、ビデオが自宅になかった時代だ。それほど、世界の王の決定的な瞬間を記録したかったほどの大ファンだった。流れるような独特の1本足打法から打ち出される、高々としたホームランのアーチは、いつもすごかった。王が1本足打法を荒川コーチと生み出すまでのすさまじい練習の映像もまざまざと覚えている。たしか畳が擦り切れるほど素振りをして、刀でわらを切ったり、刀で1本足打法をしていた。なぜ刀だったのだろうか。フォアボールのときも王は、表情1つ変えず、淡々と1塁にでていたのを尊敬のまなざしで見た。アーロンと王はホームラン競争をし、アーロンが1本差で勝った。

私が日本で一番野球を真剣に見ていた時代。勿論、長嶋のプレーに感嘆の声を上げていたが・・・大昔、巨人全盛だった頃の「鉄のカーテン、川上野球」の時代だ。毎週テレビ漫画の「巨人の星」を試合と同時進行で、(やや漫画は遅れながら)楽しみにして見ていた。しかし、大人になると、忙しくなり、なかなか1試合フルで観れなくなり、自然に野球から遠のいた。

明日で、6月から駆け足でアメリカ野球の歴史を振り返ったこのクラスもいよいよ最後。月曜日にハンク・アーロンの映像を見たので、王の姿もアメリカ人の学生たちに見てほしいので、ユーチューブで見るのを教授に提案してみよう。

また、今日の投稿に写真等追加するかもしれないので、チェックしてみてください。1970年代の選手たちの紹介はまだまだあります。    ~この項続く