野本時員が肥前国の高来郡西郷の、野本行員(時員の孫)東郷の地頭となっていたことが下記の本から分かる。
その際は、北条義時の差配だったのではないだろうかと思う。
その後、地頭職が有間朝澄に渡った経緯、開発領主となっていった経緯もよくわからないが、父経澄が近くに城を造り、住んでいたことからも土着していったのだと思う。
1247年に朝澄が歿する前に相伝の文書が書かれたと想定するには不審な点があるように思える。つまり,何らかで亡くなったあとに急遽つくられたと思う。(相伝とはそういうもの?であったなら、スミマセン
遺言のように先に書いておく…というのが、相伝文書かと思っているのだが、その捉え方が違うのかもしれない。)
宝治合戦のその日に書かれていることが、気にかかるのである。
生き残った者が相伝者になっている点も、宝治合戦のその日に相伝している点も、合戦に関わっていない何者かが其の肥前国深江の地頭職の空白を出さずに、誰かに取られないようにしたのだろうか?
ひょっとすると、相伝を予定していた者が宝治合戦で亡くなり急遽新たな者を相伝者としたのかもしれない。しかし、肥前国は離れているので、当日すぐには書けないはずである。
もしかすると、相伝者の蓮忍・その次の相伝者であった蓮仏は、有間氏ではなく、臨時の者たちであったかもしれないとさえ思う。
持澄になって、やっと有間朝澄の子孫に戻ったのではないだろうか?
北条氏の動きと関係しているのかもしれない。
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時代は、上記よりも前のことになるが、
野本時員は摂津国守護となっていた。(1224年 - 1230年 )
郎党の起こした事件で、守護職を召し上げられている。
時員は、肥田八郎宗直の預かりの身となるのである。
この肥田氏とは?
これから調べてみようと思う。