少弐氏の祖である武藤資頼に関しては「みやこ町歴史民俗博物館」が詳しかった。
『筑紫氏系図』には、平知盛に仕え、兄の武蔵藤原監物(けんもつ)太郎に従って一の谷の戦場にあったとき、梶原平三景時の婿であることを頼んで降人となり、身柄を三浦義澄に預けられていたとある。
さらに、その上にこう書かれている。
『武藤資頼が、源頼朝に仕えることになったのは比較的遅い。『吾妻鏡』(文治五年=一一八九=正月十九日の条)に、源頼朝が正二位に昇進し、大臣大饗の儀式というものを模擬したとき、若君頼家につける平胡簶(ひらやなぐい)・丸緒の付け方が分からないということがあり、三浦義澄が預かっていた囚人武藤小次郎資頼がその故実に通じていると、三浦義澄が申し出たので、源頼朝は彼の罪を許し、その知識を用いることにしたと述べている。』
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上記で大事だと思った箇所は、以下であった。
囚人武藤小次郎資頼がその故実に通じているという部分である。
故実に通じている…という事は、宮廷にも通じているのではないだろうか?
故実 、特に武官故実に通じている家とは…
『平安時代には、武人の故実(武官故実)は、紀氏と伴氏が伝えていたが、武士の台頭とともに衰えた。』
(wikipedia)にある。
特に武藤資頼の実父は不詳であり、藤原道長の裔という事である。
猶父が武藤頼平という事なので、平知盛と関係があったのだろう。
武藤頼平は平知盛の目代として武蔵国に在住とある。
武藤頼平の父は、武藤頼兼である。
平知章の「母治部卿局」は武藤頼兼の娘となっている。
弟である資頼も義澄に預けられていたようで、上記のページに書かれている。