藤原清兼(佐藤氏)の息に実清の名があり、
その実清の息【賢清】は、実は実清の姉か妹に託された息で【中原久経】であれば、系図ができるのだが、僧名賢清となった人物が、頼朝のもとでは久経を名乗るであろうか?
還俗という事もあるが、やはり別人か?と思う。
とすると、久経と賢清は従兄弟か義兄弟という可能性が高いかと思う。
ともかく、清兼が祖父とすると
久安二年(1146年)の記事の清兼が該当するのだろうか?
清兼という名は、他にも見えるために見極めが難しい。
『藤原武智麻呂の孫真作の後裔藤原清兼の子で『尊卑分脈』には兄の資清とともに陪従とみえる。』と、此の清兼はどうなのだろうか?
此の美濃の清兼も気になる存在であるが、どうなのだろう。
(佐藤)清兼ー実清
清兼ー右馬権頭実清ー賢清
清兼の娘を母としていた松田義経(常)も右馬允となっている。
この二つは符合しているので、正しいのではないかと思う。