経賢ー賢清ー経任ー経久となる。
「太夫」とついているのは
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五位の男性の通称として用いられていた大夫という言葉は、朝廷の支配が弱まり、武士の世となった鎌倉末期には芸能の棟梁を指す言葉ともなり、「大夫」は「太夫」と書いて「たゆう」と読むようになりました。五位という位階は貴族では最下層ですが、やはり六位以下とはその身分や待遇において雲泥の差があり、武士の世となったとはいえ、庶民や地方武士達にとっては一種の憧れ(あこがれ)であり、ステータスでもありました。従って時代が進むに従い、太夫は様々な者を指す言葉となり、人名の一部となったり、身分ある人への呼びかけにも用いられるようになりました。
・・・(略)
ちなみに、五位以上の位階を持つ女性、あるいは五位以上の男性の妻を命婦(みょうぶ)と呼びます。
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まだ平安後期の時代のことで、中原経行が従五位下であったことも考えるに、経賢もその地位に居たのかと思われる。
しかし,中太(中原の太郎)であった賢清から九里太郎の経久までは「太夫」は見かけられず、鎌倉時代に入り状況が変わったのだろうと思う。
また「清」の文字は「清原氏」を思い起こさせる。
そこ(賢清)に何等か清原氏との接点が生じたのではないだろうか?とも思われるのだが、その「清」は、実は母方の父「清兼」から来ているかもしれないと想像している。