右馬権頭実清 土佐国へ配流セラル…とある。(保元元年 1156年)崇徳上皇・頼長の方に付いていた。源為義も同じくである。
いかに藤原長輔の三男の「実清」がいるが、
藤原 実清[ 保延5(1139)年 〜 元暦2年正月8日(ユリウス暦:1185年2月9日) ]長輔三男。母藤原清隆女。治承元年11月12日(ユリウス暦:1177年12月3日)叙従三位。
元暦元年12月21日(ユリウス暦:1185年1月24日)出家。
正三位・非参議。※生年は、公卿補任の出家時の年齢46歳から逆算したもの。初見時の年齢から計算すると、保延4(1138)年生。
元暦元年12月21日(ユリウス暦:1185年1月24日)出家。
正三位・非参議。※生年は、公卿補任の出家時の年齢46歳から逆算したもの。初見時の年齢から計算すると、保延4(1138)年生。
保元の乱は1156年でもあり、そうなると 17歳の時に新院の許で右馬権頭ということになる。
あり得るのだろうか。
これは、秀郷流佐藤氏の藤原清兼の息の実清ではないのだろうか?
清兼の娘は1120年代の生まれと思われ、康治二年(1143年)に源朝長を産んでいる。其の兄か弟なのではないだろうかと思うのである。
もしも、秀郷流の実清であるならば‥‥の想像なので、また外れているかもしれないのだが、
そうなると義朝の妻となった姉妹の居る実清が義為側についたことにもなる。