久兼が関わった荘園は、畠山重忠の所領であり、後に頼朝に没収された【治田御厨】
員弁家綱 が開発領主であったようだ。
しかし、畠山重忠も地頭であり領主でもあったようで、そこが騒動の根源思われる。
その騒動を止めに入ったのが大江山城介久兼と息?の久景であったようだ。
銅が採れる場所であったため、重要だったのだと思う。
この紀頼任が員弁近江に関係する人物であった。
紀頼任改任とあるので、為奈部(員弁・猪名部)安永がその役目を解かれ、紀頼任となったようだ。(どちらが先だったのか、よくわからないが…)
長和4年(1015年の事)
1090年に久兼の活動期…と云う事になりそうで、山城介大江久兼ではないことになる。
という事は、そこに員弁家綱につながる人たちが居座ったという事だろうか。(?)同じ員弁一族かどうか…?
そして、この場所(員弁)は清原氏がいた場所で深尾氏の隠れ里であったはずの近くであろうと思われる。
現在ダムの中になってしまった里である。
為奈部=大和朝廷の職業部の一つで木工技術をもって仕えた 一族。
畠山重忠と山城介久兼は、婚姻関係があったのでは?とも思う。
そのあたりも調べてみたい。
薄いピンクが訂正部分である。朝改めて見たら、ピンクだらけになってしまった。(頭の中の実況中継のブログなので)スミマセン!
河越荘は、河越重頼が、後白河院に寄贈して以来、皇室領となったそうです。
中身は、難しいです😰
資料、電子化するのも大変な分量でしょうか?
送っていただくのと、どちらがJikan様にとって手軽でしょうか?
どちらにせよ、Jikan様にお手数ばかりをかけてしまい、申し訳ないデス。。。。
お陰様でその後かなり進展しました。ありがとうございます。
さて、今持ち合わせの知識ですが、その「大江」は「土師」の末裔になりませんか。
であれば、私家とも関係がありそうです。勿論異なるかも知れません。
コトバンクにも「桓武天皇の外祖母の一族土師(はじ)氏に大枝朝臣の姓を賜ったのに始まる氏族。」あること。それ以前の武寧王ともつながる事、相撲と関係すること、などなど気になる点満載の大江氏(土師)です。
栗枝渡・月読のラインですが、栗枝渡は安徳天皇に関係していましたよね?
我が九里の祖が地頭としていたのが、まず丹波国大江山麓。その後居たのが因幡国の「岡益の碑」のすぐ近くなので、また安徳天皇と関係します。
そして、月読神社(京都の松尾)に行った際に、壱岐から人々であったことが書かれていました。
バラバラな情報ですが…
何処かにつながる糸があるはずです。
直ぐにPDF化して送ったのですが、アドレスが間違っており、昨日気が付いて再送しました。届きましたでしょうか?
山羊さんメールですね😓
黒山羊さんからお手紙書いた~🎶
感謝いたします~~!
これから読ませていただきます。
ありがとうございました!!!