武藤氏(後の少弐氏)が九州にやってきた時代は、実は宇都宮氏が九州に来た時代と重なっているのではないだろうか?
宇都宮宗房=中原宗房が、
『豊前宇都宮氏の祖』とも言われているというが、
宇都宮・中原信房も祖と言われているようである。
宗房の兄は宗綱で、寒河尼の父ではないかと言われている。
寒河尼は頼朝の乳母でもあった。
今回は、豊前宇都宮氏の九州における活躍等を見ていきたい。
wikipediaには、
文治3年(1187年)9月、鎮西奉行として鬼界ヶ島(貴海島)の平氏残党討伐で功績を挙げた。建久3年(1192年)には豊後国・日向国内において所領を与えられた。
晩年は仏教に帰依した。天福2年(1234年)8月2日、79歳で死去した。
とある。
息のうち、三人には、九州での所領を冠した苗字がついているようである。
- 男子:宇都宮景房
- 男子:笠間有房
- 男子:如法寺信政
- 男子:麻生国弘
- 男子:山田景長
横道にそれてしまうが、今回『深水』という苗字を宇都宮信房の兄弟に見つけたが、これは、秀郷流の片岡氏が近江蒲生郡に移り住んできた際の場所の【深水】と同じなのではないか?と思った。
宇都宮信房の兄弟・中原宗隆、野仲重房、山田政房、深水興房、西郷業政、廣澤直房、那須有家、江里口業俊
話を戻す。
以下の本に、天野遠景のあとに武藤氏が筑前・豊前・肥前の守護職となり、その後太宰少弐となったとある。大友氏は豊後・筑後・肥後の守護職である。
宇都宮信房は、はじめは平氏亡き後の没官領の地頭職であったようなのだ。
これは、意外であった。守護職だったのかと思っていたので…
では、有間氏との接点はあったのだろうか?