長野氏、藤原南家から出た長野氏もアヤシイが、その他にも「長野氏」は存在している。
建武三年から五年にかけての『足利尊氏感状写』などに、長野助豊の名がみえる。この助豊は建武五年の軍忠状には豊前国長野左衛門三郎助豊と自称し、別の軍忠状には中原助豊と署名している。これらのことから長野助豊は、治承五年(1181)に長野荘の地頭として現われる中原助光の子孫と思われる。そして、助豊は豊前守護少弐頼尚にしたがって各地を転戦したことが知られる。
一方、桓武平氏という長野氏は『長野系図』によれば、豊前守基盛の弟三郎義広が多々良浜の合戦において尊氏軍に属して戦死している。ついで基盛の子秀盛と孫久盛が、尊氏に味方して九州の所々において戦功があったと記されている。
南北朝時代のはじめにおいて、清原氏系、中原氏系、桓武平氏系の三つの長野氏があらわれるが、いずれも長野荘ないし規矩郡の武士たちである。これらの長野氏をどう整理し、いかに説明するか、『北九州市』では「大変な難問で回答に苦しむ」ところであると記されている。まことにその通りで、長野氏の解明には多くの障壁が横たわっているのである。
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以前書いた記事に「中原助光」がいる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/ebae03e428e9f24f21121ad970af79a8
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/0f4c6db8fdf39c45c1eb84e64ec71fda
豊前国 企救郡 長野庄は宇佐八幡領でもある。
この長野氏が一番アヤシイのではないだろうか?
平貞盛からはじまる系図の平清盛の従兄弟に当たる「平康盛」という人物、コトバンクによると、
「?-1191 平安後期-鎌倉時代の武士。
源義経の娘婿源有綱の家人(けにん)。頼朝と義経の対立の際に頼朝の命で有綱を殺した北条時定を討とうとしたが,梶原景時に捕らえられ,建久2年12月6日処刑された。」という源義経・源有綱と関係がある人物だったのである。
https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063482.pdf
この長野氏系図の漢文の意味は、「元暦2(1185)年、長野長盛とその弟たち3人は、源氏に降参けいずした。しかし、頼朝は、この3人を許そうとはしなかった。そこで、源範頼が、何度も許してあげるよう、頼朝にお願いしたので、長盛が42歳の時に、規矩郡の地頭職になることができた。」
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武家家伝 豊前長野氏
系図の名前を見ても、知らない名前ばかりなので単なる妄想に過ぎないかもしれない。
宇佐八幡宮と石清水八幡宮の関係、源義経と有綱の娘のこと(乾氏)、系図の中に藻原七郎義通と藻原が付いている事、
富来氏が国東半島にいた事とも符合する。
単なる、偶然なのだろうか?
私は、九里から全く離れてしまっているのだろうか??
自分でも全く分からないままの状態である。
この長野氏が中原氏でもあった事。
平康盛が源有綱の家人であった事、は確かなので、ココから繙いていくことができるのではないだろうか?
長野=中原=多賀・九里・富木(冨城・富来)
さらに斎藤氏が絡んできて、清原・野本・大中臣とつながってくるのではないか。
今別件があり記事を落ち着いて見れてはいないんですけど、南家関わるなら面白くなりますよ。
数年前に知り合いから河内長野って所で信州以外の長野の地名を知ったんですけど、最近また長野って場所出てきたような?河内って系統があるように思うんですよね、孝徳さんが都においてかれたんだっけなあ?奈良の方と大阪の方とでそもそものベースが違うようにも思う系統の動き。そこで考えると父は奈良より大阪のが縁がありそうに思ってます。大阪の方が関東にも飛びやすいのもあるのかも?大阪と奈良の山で考えると個人的には大阪から入る方が縁感じるんですよね。山の東と西で微妙に違うようにも。ただベースとしての共通項はあるのでどっちも争わずお仲間と考えられたら良かったのになあと思います。
その共通項に多分関わってそうな水神さんの一つが九里さんだと思いますよね。
知性と肉体とで適性を分けたら多分長野氏は肉体派、赤のイメージです。で歴史の中でまず赤が見えなくされてそこで守りが弱まり今度相方の方(源氏系で白な青)も大事な所が消えてそうです。黒と白でもいいかも。
でも結局一緒なはずですよね。おやまの上はどっちにも影響与えるので。風習はそれぞれでしょうけど、そもそもの風習の理由などは共通でしょう。
長野氏の文字で言えば長、時期により永に移行の方が安全なようですよね。ナガとナカで言うと濁点があるかないかの違いだといいですよね。長屋王系だといいんですけどね。流通ネットワーク持ってそうなので長屋王にくっ付くのはありがたいけど。
長野って文字だけで超ワクワクです。
大江長元さんって大江で知性ありで長で肉体派(治水や肉体労働)も共存?
どうだ、昨日中大兄皇子って子供のタブレットでひらがなで書いていてナカノオオエノオウジなのでナカもオオエもありますよね。孝徳おいて都移したんでしたっけ?偶然のタイミングですが。歴史の勉強ではその後すぐ天武が持っていっちゃう。両方とも無名感半端ないですよね。茅渟王辺りの系統も今後関係してくると面白いですよね。吉備関係鉄関係も絡む理由も出てくるでしょうね。
それは、いいアイディア! 長野は永野もあり、は文献でもありましたが、「ナカノ」もありかもしれませんね。
「ナカ原」「那珂原」「ナカ野」「那珂野」
「ナカ」と「ナガ」意識してみます。
膳 長野(かしわで の なかの)さん
ちょっと面白くなりますよ。Wiki見てみてくださいね。
あと宍も土浦でもあったんですけど猪っぽく思ってます。で宍人部ってのも参考になるかと思います。
個人的ライフワークとして杉山神社探している中でマークしていた所で、太田道真さんが住んだ場所かもという方がいそうなのも鳥肌かな。
安閑天皇まで遡れそうにも感じますよ。
まあゆっくり。
あと膳なのでどこに入れるか?迷ったんですけど、多田がとても嬉しくはあったんですけどここぞという事もなく、長野繋がりでこちらに入れます。
どうも安閑の時も天武の頃もお妃や食べ物情報を得ていたのは関東っぽいように思いますね。お勧めは樹橘郡、で太田庄が近くにあり多田さん系が入っていてそして和邇も関わるのが好みです。
忍壁皇子も関係するなら高松塚もって頭がしっちゃかめっちゃかです。将来的には奈良三輪にも行くんではないかな?と。磯城という場所も奈良で調べてますけど宍人と関係しますね。
いよいよ関東と奈良がかなり交流持ってきそうです。
そこに武蔵、ただかなり南東ですけど多分西にも北にも平安鎌倉で西にも北にも動くでしょう。
ただ太田で考えると群馬と川向かいの群馬と練馬と中川の昔の流れでもかなり広範囲にも思ってしまいますよ。
太田姫は千代田区にいますけどあそこで大田皇女のお墓発見ニュース知ったんですよね。父が太田裕美さん大好きだったのも何かありそうですよ。
大宝律令に関わっていそうな方も出てきたり、都筑郡の古墳に大原(おっぱら)もあるし、すぐに思ったミナカタさんの神社も近いんですよ。父が笑点好きだったんですけど座布団運びの山田さんが名字と同じ神社の所にお家買ったとかで有名な辺りです。あの辺かなり弥生前も栄えていた可能性はありますよ。多田と太田が絡むならかなり鳥肌ですね。日本の歴史ちゃんと出てくるといいなあ。
河内長野からは吉村知事出てくるし、明智光秀の生まれたのは多賀大社の近くの佐目ですって昨日磯田さんやってましたよ。多賀大社の若宮好きなんですけど、明智光秀とあの辺りも関係ないかな?二代将軍は武蔵国結構好きみたいですよ。理由ありそうですよね。