多賀氏、その後(武家家伝 多賀氏より)
高忠ののち、多賀氏は高家、高房と続き、高房は京極政経・材宗父子に仕え在京していたことが『蔭涼軒日録』の文明十八年(1486)七月の条にみえる。そして、嶋記録から高房のあとは豊後守貞隆(貞澄)が継ぎ、ついで貞能へと続いた。しかし、その間の多賀氏の動向はようとして分からない。
十六世紀の半ばになると、尾張から興った織田信長がにわかに勢力を拡大した。永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じて上洛軍を発した信長は、江南の戦国大名六角氏に協力を求めた、しかし、六角氏はこれを拒絶したため、信長軍の攻撃にさらされ没落した。六角氏の麾下にあった蒲生氏ら多くの武士は信長に属するようになり、多賀氏も信長に仕えたようだ。そして、貞澄の子貞能は明智光秀、ついで豊臣秀吉に仕えたという。
男子のなかった貞能は堀秀政の弟秀家(秀種)を養子に迎え、秀家は出雲守を称して兄秀政に仕えた。しかし、天正十八年(1590)の小田原陣において秀政が陣没、秀家は大和大納言豊臣秀長に仕えた。ところが、秀長も病没したことで豊臣秀吉に直仕し、文禄元年(1592)、大和国宇陀郡において二万石を与えられ秋山城に入った。
かくして、多賀氏は秀吉政権下の大名に出世したが、慶長五年(1600)に起こった関ヶ原の合戦に際して石田三成方に味方したことで没落の運命となる。合戦に際して秀家は旧主筋にあたる京極高次が籠る大津城攻めに加わり、戦後、所領を没収され越後国に追放処分となったのであった。かくして、多賀氏は歴史の荒波に呑み込まれてしまった。江戸時代、徳川家旗本に中原氏流を称する多賀氏が見えるが、中世を生きた多賀氏との系譜関係は不明である。
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太字は私が重要と思い、変えたものである。
この堀秀家=多賀秀種が大和国宇陀郡に赴き、城を改築した。
2016年の古い自分の記事で恐縮だが、ココとつながってくる。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/19a3da4c0b885d848b4d3e368ff4a19b
九里政直は、私の先祖の宇陀松山藩の初代で、始めは岡田政直と岡田を名乗っていた。
(宇陀崩れ後は丹波国柏原藩に移封)
この下の資料、面白い!! 史跡宇陀松山城跡出土 資料展 宇陀市教育委員会
https://www.city.uda.nara.jp/kankou/rekishi/shiryoukan/documents/kimenhyakusou-panf.pdf