多賀大社を書いた後に、たまたま図書館から借りてきていた「小堀遠州茶友録」に本阿弥光悦のことがでていた。熊倉功夫 中公文庫
私は芸術一般が好きなので、この本もとても好き!
その中でも光悦の母「妙秀尼」のエピソードが面白かった。まずはコトバンクで妙秀尼のことを。
1529-1618 戦国-江戸時代前期,本阿弥光悦の母。
享禄(きょうろく)2年生まれ。本阿弥光心の娘で,片岡家から光二を婿にむかえ,光悦ら2男2女を生む。才知にあふれ,名家をよくおさめた。その逸話は本阿弥家の家記「本阿弥行状記」にしるされている。元和(げんな)4年死去。90歳。京都出身。
この光二が多賀高忠の孫にあたると思う。
以下の系図の箇所は以前書いたものであるが、
「本阿弥光悦は多賀高忠の曾孫で、多賀高忠―次男宗春(片岡次大夫)―次男本阿弥光二(光心養子)―長男本阿弥光悦 となるようです。」
母妙秀尼の思い出(光悦の書いたもの)
『人殺しをした男が血刀をさげたまま捕手の者に追われて妙秀の家に逃げ込んだ。男は妙秀を人質にとろうとしたが、妙秀はこちらへと男を案内して納戸へ隠す。そこへ捕手がきて妙秀に尋ねると、妙秀は裏の方へ逃げていったようだと顔色一つ変えずに答えたものだから、捕手はすっかり信用して近所を探して空しく帰ってしまった。夜になって妙秀は男に新しいかたびらを着せ替え、編笠と旅金を与えて、そっと逃がしてやった。妙秀は、人の善悪に関わらず、困っている者を助けなければならないと教えたのである。」
また、こんなことも妙秀は教えた。
「親子、兄弟近くに住居する事は宜しからぬこと也。遠きは花の香といふ。又住居近ければ、下々度々来り、飽きことをいはず。又若火事にあふ事ありとも、兄弟の家あれば其の方へ立ち退て、差かかりて事にかかず。」
(熊倉氏の文↓)
なるほど、現代でも生かせる教訓である。遠くにいれば懐かしくなる。遠きの花の香であろう。近くの親戚ではもし火事が大きくて延焼してしまったのでは、双方が困る。一方が災難をこうむっても一方は助かるような距離が必要である。これは単なる火事のことばかりではなかった。戦国乱世に生きる町衆の智恵である。
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肝っ玉が据わっていて賢い。これぞ、母親ですね。
もう遅いかもしれないけれど、見習いたい光悦の母妙秀尼でした。
ネットオークションに伝光悦や遠州の商品が売りに出されると、必ず入札に参加するのですが、あっという間に遠い高値に行ってしまうので落札した事が有りません。
「落款は無いが、これは、宗達に違いない」、「この下絵は光琳筆だ!」と何でも鑑定団で笑われるパターンを幾つかコレクションしております。(笑)
光悦の姉が雁金屋に嫁いで、尾形家は光悦と親戚だったと言うのが、光琳の呉服屋の若旦那芸に止まらなかった要因だと思っております。
日本中で遠州作庭園は、その施設の売りですが、終焉の地の伏見区では図書館にすらその関係本が無かった程嫌われておりました。孫が伏見奉行となり、芸術に多額の資金を投じる為に住民に重税を課し、一揆が起こり、その際に処刑された義民の碑はあちらこちらにあります。黄門様に成敗されるお代官様そのままだったようです。
自称古物目利き?としては、是非読みたいと思います。
光琳も素敵です!
私は弟の乾山の自由な作風に魅かれています。
良く言えば自由、悪く言えば気の抜けただらしないような気も。でもワザトニそう醸し出している!と思います。
遠州さん、使い過ぎていたと思いますし、お金の管理がきちんとできていなかったのかもしれません。その莫大な借金を返せなくて孫が重税にしたのですね。
伏見区、徹底していますね。今なお遺恨ありなのですね。伏見に行った際には「遠州」と口にしないよう気を付けます。