多賀氏について『白石紳書』に「多賀氏は中原也、高忠、近江人、豊後守、従五位下、所司代、応仁文明の人、熊野本宮和田氏家蔵判物あり」と記され、また『多賀家中原考』には「家説多賀豊後守高忠実は京極加賀守高員(数)が男なりけれども、多賀豊後守高長の養子と成給ふ故、中原氏多賀の称名を用ける也」とあり、多賀氏は佐々木氏からの分かれではなく中原氏であったことが記されている。
もう一つ、総合出版社「暦研」のブックレットより
「多賀家物語 わが家系 千四百年の旅」に同じく中原氏の庶流である「九里」にとっても有益な情報があった。
九里の祖の周辺の年代がこの方によって大まかではあるが、明らかになったのである。
多賀氏となった成行と九里氏となった経行は兄弟である。同じように行動したかどうかは不明であるが、その可能性もあると思う。
表にしてみた。緑の文字が多賀家物語からのものである。
このヒントにより、経久がだいたい1220年には活動期であったろう事が想像される。