ちょっとしたきっかけから、いま観阿弥・世阿弥の時代背景等調べている。
そこで、気になったのが「秦河勝」のことである。
翁のあらすじにその名が載っていたのである。
https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_067.html
the能com,のページからそのあらすじを一部ご紹介すると
猿楽の祖とされる秦河勝(はだのこうかつ)の子孫、秦氏安(はだのうじやす)が、村上天皇の時代(10世紀ごろ)に、河勝伝来の申楽を六十六番舞って寿福を祈願したが、そこから三番を選んで式三番(「翁」の別称)とした」という内容を記しています。
世阿弥が記した式三番は、父尉(ちちのじょう)、翁(翁面(おきなめん)とも)、三番猿楽(さんばさるがく)という、それぞれ老体の神が寿福を祈願して舞う三番の曲を指し、三番一組で演じられました。後に父尉は演じられなくなり、現在は千歳・翁・三番三(三番叟)の順に舞うかたちとなっています。
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秦氏と猿楽、そして能へ…
「能」のことは、全く知らない世界なので、どこを切り取っても新鮮なのだが、
この「翁」のことだけは確か関裕二氏の本の中にも出てきていて、記憶にある。
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秦氏が猿楽の祖とは知らなかった。
小野氏あたりかとばかり思っていた。(アメノウズメ)
さて、その秦氏と近江国蒲生郡との関係を見るのに程よい論文紀要が見つかった。
「志賀漢人」と称されていたようである。
『蒲生郡の渡来氏族とその文化』大橋信彌 著
http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/11_ohashi.pdf
以前のパンフレットとも共通の「宮井廃寺」が出ている。
http://www.city.higashiomi.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000011/11538/miyai.pdf
近江蒲生郡西里に志賀漢人が入っている記録があるので、その場所を探ってみたが、わからなかった。下記の小論にもその名は出てくるのだが。
『郷祭りにおける複数村落祭祀の成立 近江蒲生郡を中心に』大塚活美 著
file:///C:/Users/mamo/AppData/Local/Temp/kenkyuhokoku_098_03.pdf
『古代日本の知恵袋、渡来氏族「秦氏」の摩訶不思議』このページも面白い!
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090408/328097/
厩戸皇子の知恵袋的存在として、秦河勝(はたのかわかつ)をとりあげる。秦氏一族の動きには古代のインテリジェンス活動が凝縮されているからだ。秦氏はユーラシア大陸のかなり奥まった地域の出身で、朝鮮半島を経由してやってきた渡来系氏族である。秦氏は6世紀頃から断続的に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来してきた。
鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などの最先端テクノロジーを倭国に伝播させた氏族だ。
秦河勝は、その際立った技術経営力、人材機動力、財力、国際的知識を駆使し、厩戸皇子のブレーンとして大活躍した。厩戸皇子は、当時の微妙な外交、地政学的ニュアンスを熟知していた秦河勝から、儒教、仏教のみならず中東系諸宗教、律令制といった当時の知のワールド・スタンダードのみならず、国際政治、通商、パワーポリティクスの機微を徹底的に学んだのである。
秦氏と八幡神社の関係
秦氏は、九州北部の宇佐八幡神社がある地域を拠点にして、山城(現在の京都)さらには全国に広がっていった。秦氏に関する史料は全国に散らばっているが、特に、九州北部の宇佐地域や、山城地方に多くの史料が残されている。例えば山城地方にある太秦(うずまさ)がその名のとおり秦氏の一大拠点だった。
八幡神社といえば、稲荷とならんで日本でもっとも馴染みの深い神社の一つだ。はちまんさま、やはたさまを祀る八幡社、八幡宮、若宮神社などを含めると、全国津々浦々、街中、田舎を含めてその数は全国で1万4800社(神社庁公表)となる。読者の皆様も近所を見渡せば、どこか近くに八幡様が鎮座しているのではないだろうか。その八幡神社は、もともとは秦氏のカミさまを祀る神社である。そのカミさまがどこから来たのか、なにものなのか、についてミステリーがある。
秦氏は新羅を経て渡来したとされる。これについては、いくつか根拠がある。秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦は新羅系のものが圧倒的に多い。また秦氏の氏寺、「広隆寺」にある国宝第一号の「弥勒菩薩半迦思惟像」は、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像に酷似している。しかも広隆寺の仏像の材料である赤松は、新羅領域の赤松であることが判明している。
秦一族は古代の技術経営スーパーエリート
秦氏が得意とした鍛冶とは、木、火、土、水、金を制御するテクノロジーであり、古代日本にとっては奇跡にも近いワザだった。ちなみに、木、火、土、水、金(もっかどすいきん)の五行をもって宇宙の構成要素とする。土着人から見れば、鍛冶とは自然をあやつり、そこから光り輝く銅や鉄を生み出す神秘の所業でもあった。
九州北部・近畿の銅山とその麓に展開された銅を生産する場のマネジメントは、秦氏および関連の一族によってなされたものと考えられる。火と日を知るものをヒジリ(聖)という。火を制御する鳥が鍛冶シャーマンのシンボルであり、秦氏の場合、神の鳥のシンボルは「鷹」だった。
秦氏は、鍛冶の技術をよく営み、金属器をよく鋳造したので、必然的にシャーマン的色彩を帯びている。古代において技術者は祭祀者でもあった。つまり、ものづくりとは、自然に働きかけ、そこから神秘に満ちたモノやコトを生み出す神聖な所作であった。ものづくりの原風景が秦氏界隈には沢山ある。
秦氏は日本に養蚕、機織の技術をもたらした一族でもある。ハタは機に通じている。蚕を飼い、その蚕がつくる繭から生糸を紡ぎだし、あでやかな絹織物に仕立て上げる。艶やかに絹で織られた着物を着る人々は羨望の目で眺められたことであろう。ちなみにサンスクリットでハタは「絹の布」をさす。
愛智郡にも秦氏がいて、平安時代の文書にはその名が記載されていたように思う。
八幡宮が秦氏とつながりが深いとなると、和邇氏・宗像氏・物部氏も?入るのだろうか??
難かし…
小生の住む場所は、午前中どんどん気温が上がり、午後から雷雲が大宮と秩父を通過した関係でパラっと雨が降り、2℃程下がりました。でも34℃なので、kunori様のお住まいからすると懐かしいだけかと。
(;´д`)アジー
感染と熱中症と身の危険からしてほとんど家を出ていないです。ちょっと運動不足。
又近況をお話いたします。何しろ人と会話していないので。
拙句
夕立のいなづまもはや過ぎてくれ
Jikan様には長い付き合いとなって参り、また度々大変お世話にもなっており、もう親戚の方と思っております! (勝手にですが。)
どうぞどうぞ、遊びにいらしてください!
メールも、いつでもOKです!
私はココ一週間でしょうか? 能の世界の勉強を始めました。
驚くことに「源頼政」「藤原実方」など、九里に関係がありそうな人の「能」もあったのです。
歴史をわずかに知った事で、「能」も面白く思えるようになってきたようなのです。(年代かも?)
Jikan様は、ご覧になったことありますでしょうか?
秦氏は、何でも知っている聖徳太子のブレーンであった!という所が重要とは思いますが、関裕二氏の説のように、聖徳太子とは善徳なのでしょうか?
聖徳太子がわかれば、秦氏も分かってきそう?なような気もします。
いろいろなことを知っていたという事は、古代ユダヤ人の知恵も持っていて、という事だったのかもしれませんね。
佐々木盛綱のことも「能 藤戸」となっておりました。
https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_078.html
でも敏達天皇はニギハヤヒの系統の大王で、中大兄の祖父でしょう(渡邉さんの前作から天智天皇は即位していないのですが、ニギハヤヒの直系の子孫です)。わたしは宗教対立ではなく、半島経営の対立とみています。この部分は日本書紀が一番隠したいのです。藤原の出自に関わることですから。関さんの鎌足=百済王子豊璋説はいいと思いますが、その百済が怪しいのです。現在調査中ですが、時間がかかっています。また、ヒントをよろしくお願いします。( ^)o(^ )
伊吹山、登られて大阪方面まで見えましたでしょうか?また、近江八幡くらいまでなら楽勝?で見えましたでしょうか?
実際に行ったことのない場所のことを書いているので、伊吹山からの眺めのご感想を教えてください!
また、本もご紹介いただきありがとうございます。
蘇我氏であることは確かなのかもしれませんね~~。
豊浦は推古天皇の宮、かつ山口にも近江にもある名前ですので、それがヒントとなるのかもしれません。息長台与と仲哀天皇の新婚生活の場所かと思います。
秦氏、近江国愛智郡にも平安時代ですが、たくさん名前が出てきており、興味はあります。
みんなで、ご地元の秦氏情報を集めれば、意外とうまくいくのかもしれませんね。
金沢に昔いた時、宝生流を無料薪能で見ましたし、京都では、各地に謡曲の看板がありましたので、それを見て廻りました。実際の謡曲は高いし、無料だと平気でスマホを上に上げて写真を撮る輩がいて見えず不愉快な思いしたので、あまり見ておりません。
謡曲は、伊勢物語や源氏物語をモチーフにしており、途中のセリフに新古今を引用しています。
藤戸も寂蓮の歌を利用しておりますので、拙blogにも新古今の後世への影響としてアップしております。
今日は昨日よりは涼しく?35℃です。夕方から雷が発生しそうですが、それまでには洗濯物が乾くでしょう。
また、雑談にお邪魔します。
拙句
ゆふ立の通るあたりも少し良い
(梅雨が長く雨が続くと早く明けろと思いながら、その後の猛暑に雨を乞う様になってしまっています)
歴史色の入った文学だったのですね。
私は能も全く知らない「日本人」でした。
これから一つ一つ学んでいこうと思います。
寂蓮の和歌ですか。寂蓮は佐々木盛綱よりも年上ですが、同世代を生きておりますものね。
そうしたライヴ感が和歌にはあったのですね。
生駒山系の北の飯盛城のあたりの最高峰に登れば伊吹山は見えるかもしれませんね( ^)o(^ )
それから推古天皇も仲哀天皇も話だけの架空の人物ですよ。仲哀天皇は尾張王だと推理していますが、息長台与さんのダンナではないです。台与さんは大国主久々遅彦の奥さんですので、不比等に騙されないでくださいね。息長氏と尾張氏は婚姻関係があっても不思議ではないですけど。前方後方墳が証拠でしょう(*^▽^*)
秦氏は、大変そうですが、頑張ってください。期待しております(*^^)v